2008年08月18日

『あおぞら』

3年くらい前に出たノンフィクションで、内容は有名な携帯小説、『恋空』に似ている。

http://natsu.cc

執筆時の作者はまだ女子高生であり、文章表現は、探せば突っ込みどころ満載なほど拙いし、中学生時代に遡る作者の軽率な行動の数々に嫌悪感を感じる向きは相当あると思う。しかし、少なくとも自分と同じような過ちを犯す人が一人でも出ないように、もし誤って苦しんでいる人がいるなら、その苦しみを乗り越えられるようにという、彼女の祈りにも似た真心、真剣さが、真っ直ぐに伝わって来た。

これを読んだ後、パソコンに保存していたH動画を迷わず全部削除しましたよ。

昨晩のお祭りライブ+いつもの痛飲で、今朝は特にフラフラだったが、内容に引き込まれて一気に読んだ。

援助交際やレイプ被害といった性の暗闇部分にこれ以上ないほど傷付き(何度もストレスで吐いたりしてはる)、その一方で、その過去を共に乗り越えた、亡くなった彼氏との充実した時間を過ごした作者だからこそ、

「好きでない人とはセックスをするな」

と本気で言いはるように思う。また、愛する人との別れについてだが、人と人とが一体となり、その間にまるで血液のように心が通ってしまうからこそ、身近な人との別れには身を切り裂くような苦痛を感じ、深く傷付くこととなる。

しかし、深く傷付くからといって、心を通わせることを諦めるのだろうか?

・・諦める、が、ついこの間までの俺の答えであったが、昨日はめいいっぱい心を開き、声を出してみた。

今日の『あおぞら』が先に訪れたのか、昨日のイベントライブが先に来たのか、

「同時に来たのだ」と俺は解釈しております。
posted by よっしー at 20:15| Comment(1) | TrackBack(0) | お話・文学作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月14日

「全体」を把握するのは感情の機能である

目的因とは何か

「ひと」

という言葉を見る。

そこに、

「ひ」と「と」

という二つの音素があるが、「ひ」も「と」もそれぞれ単独では、我々が「ひと」という言葉の並びで想起する「人間」という意味内容は何一つ含んでいない。

「ひと」という言葉はそれだけで一つの全体である。

また、分析して把握された人間の臓物は、それだけを見ると、グロテスクな物体に過ぎない。それにも関わらず、我々が通常意識するのはあくまで、それらが統合され、飲み、食べ、排泄し、生殖する、人体という「全体」であり、その構成要素として臓物は、連関して、例えばこの人、あの人の中で、「全体」として機能している。

このような全体を識別したり感じとったりできる主観的なイメージが我々には用意されているが、この「全体」を指向して「ひ」や「と」のようなバラバラの部分を意味のある単位に纏めあげる目標となるイメージのこと、あるいはそのイメージに対応する(と想定される)実在のこと、これを目的因という。

哲学の歴史はカントに終わりカントに始まると称せられることになった記念碑とも言える、彼の著作に、

1、純粋理性批判
2、実践理性批判
3、判断力批判

という三部の批判書があるが、これらは順に、人間の、

1、知(客観的な知識)
2、意(意志)
3、情(感情)

を扱っている。

上記の目的因を感知できる人間の能力については、3の判断力批判、すなわち、感情についての考察において扱われているのは驚くべきことだと思う。

我々が関知する「全体」は、「ひと」のような単語の意味内容だけではない。言葉なら、文という全体だったり、段落という全体だったり、書いた著者の意図という全体でもある。

それどころか日本語という全体でさえある。

大好きな人を目の前にしているとき感知している全体は、それまでにその人と過ごしたすべての時間であったり、今のあなたとのしっくり感であったり、次に語る言葉であったり、当面話していたことであったり、極大から極小まで、闇夜を一瞬で切り裂く雷光のように、パッと一気に浮かび上がっているものであり、特定のあれが、これが、全体として浮かんでいる、というような知的な把握ができないものである。

これらの全体は、感情で把握される。感情が、この「一瞬」に続く状態を、言葉を、表情を、立ち居振る舞いを、喜びを、悲しみを導くのである。

「全体」は、知的に把握することができない。すなわち、定義ができない。

今、この一瞬に入り込み、状況に没入しているうちに知らずに踏まえられ、感じ取られているものなのだ。

「全体」は感知される。すなわち、「全体」を把握するのは感情の機能なのだ。

物欲に溺れたり、地位・名誉を渇望することが愚かなのは、それらが着々と蓄積されているという知的な仮象に欺かれて、この決して知的に把握されることのない、「一瞬」という「全体」の質の低下が忘却されてしまうことにある。
posted by よっしー at 11:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月08日

明日はスクーリング授業(放送大学)

いやはや、もうほとんど趣味なのですが。

放送大学のスクーリング授業は、全国にある拠点の学習センターが企画します。主に近隣の国立大学の先生が講義されることが多いのですが、10年20年と同じテーマを研究している先生の話やから、話がめちゃくちゃ面白いです。

いままで様々な講義を20回近く受けましたが、「つまんねー」と思ったことは一度もありません。

明日は、ドイツの哲学者、イマニュエル・カントの目的論について講義を受けてきます。内容としては、いわゆる三批判の一つ『判断力批判』に対応したものになるようです。

哲学なんて嫌いじゃーと大学時代はずっと思っていたのですが、20歳半ばの頃ふと思い立って、難解で有名な『純粋理性批判』を読んでみたら一気にはまりました。

難しい難しいと聞いていましたが、俺にとっては掘り下げた記述もなしにバラバラのニュースが羅列してある新聞の一面の方がよっぽど読んでいてキツイです。

蓼食う虫も好き好きと言いますが、まさにそれやと思います。
posted by よっしー at 08:04| Comment(0) | TrackBack(0) | その他教養 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月28日

試験考 - ブームなんて終わってくれ

(後で読み返すと、自分でも突っ込みたいことがいっぱいありますが)

某心理士になるために入るのが必要な、指定大学院について考えている。

試験・・

いったい何のためにあるんだろう?

試験を通して入った集団において、きちんと仕事ができるか適性を測るためなのか?

うそだ。

競争のためだよ。例えば定員30人なのに、そこに行きたいという者が100人いる。そのうち70人を門前払いするためにあるのだ。

例えば、(1)適性があるとされた者を50人入れて、後でやはり向いていないものを辞めさせるとか、(2)逆に適性のある者が5人しかいなかったから5人しか入れないとか、そういったやり方があっても良いと思うが、必ずしもそのようにはなっていない。

で、志願者が多かろうが少なかろうが、約30人の定員に合格者を絞るというのは、より大きく社会的に見ると、間違っているとは言い切れない。

それが例えば医者や弁護士といった仕事なら、ニーズに見合わない人数だけ増やしても、現在の運送業のような過当競争を招いて社会が大混乱するだろう。

価格競争で採算が取れなくなかった業者が、生き残りを図って、その業界の信頼を裏切るような飛んでもない不正を行って利益を追求し、大きな災厄をもたらすことも有り得る。

そのような事態を未然に防ぎ、社会への仕事供給の調整弁となる役割も、試験にはあるだろう。

また、もっと単純に、学校だと、受け入れる側の体制が整わないからといった事情もある。

その場合、優れた環境で勉強するために、志願者は他の志願者と競争するが、このときの志願者の立場は社会への仕事の供給者ではなく(教育というサービスに対する)需要者なわけだ。

そして、志願者に競争させて学生を採る側は、教育の供給者である。してみれば、至るところに学歴競争に似た不毛な競争が起こるのは、教育の供給不足によるのだ!

んなアホな・・俺は、違うやろ、と言いたい気分だが、なんでこう思うかはよくわからない。

だが、学歴競争には、「ブランド」すなわち見栄や世間体の良さを求めての競争といった側面がかなりあるように思うのだ。そのために、学校の本質が見失なわれたり、本当に入らなければならない人が入れないといった事態が起こるのはバカバカしいことだと思う。

・・と思うのは、心理学自体が混乱している学問だから、指定大学院であればどこでも良いというわけには行かないからだ。ほんまに教わりたい、学問的には異端であり、実際取り扱いに注意を要する、主観性や関係性に関わることをきちんとしているところに行きたい。

が、そうなると行くところがかなり限られるし競争も激しそうだ。心理学ブームなんて終わってしまえばいいのに。

ブームであろうがなかろうが、必要なものは必要だし、要らんもんは要らんのだ。

ともあれ、適性試験であると割り切れるなら、目標もはっきりするので、むちゃくちゃ燃えることができるのですが。統計処理が必要なら、それを必要な限りでめっちゃ頑張るし、他の実験系の学者さんとうまくやっていかなあかんから一応知っといてくれいうことがあるなら、やはりその目的に必要な限りでがんばります。いろんな関係者と連携を取ることが大事ですからということなら、企業への就職活動のように、電話の掛け方や服装、話し方といったマナー的なことにも本気で取り組みます。

競争・・となると全く燃えないです。大事なのは競争でなく、人よりできようができまいが、全体としてうまく機能することだと思います。
posted by よっしー at 02:34| Comment(8) | TrackBack(0) | 世の中・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月23日

決まり事は何のためにあるのか

決まり事とは。

小さいときからずっと、それを知らない人を排除して、わかっている人たちだけで物事を丸く収めるためにあるんやと思っていました。

いろいろ知りたいこともあるけど・・親には聞けない。俺の無知にイラつく親の顔が目に浮かびますわ。

ぶっつり。

しかし、つい最近、マナーや儀礼のような決まり事とは、それを通して気持ちを通わせるための手段だと思えるようになった。

わからないときは、どうすれば良いか話を聞く。守れない事情があるときは、どのような代替手段があるか、落とし所を見つける。そして、代わりに取ったその手段が正しかったかどうかをまた確認してみる。

それらのプロセスも含めてすべて、決まり事とはお付き合いの手段、あるいは、その働く所に初めて人間関係という「内容」が生まれる「形式」なのだと思う。

ところが、例えば葬式のような儀礼だと、それがあるときだけ顔を合わせるような付き合いの希薄な親戚同士で、急にそのような「形式」をこなす無理が出て来る。

少なくともうちはそうだ。

激しい世相の変化を経て現在に至っている今の世代である。

もと、祖父母がいた土地から遠く離れて、先人である祖父母以前の先祖からは想像もつかないような会社勤めをして、忙しく働いている。

子どもの誕生や成長、不意の病、両親の老い、そして死。あるいは自らのルーツ、自分たちを取り巻く村社会、国家といった大きな制度。

そういったものを対象化する仕組みだけが、遠い、少なくとも100年以上前のシステムのままで石化している。つまり、業者の手に委ねられて放置されている。

批判すべきは業者ではない。それらから目を背けて業者に丸投げし、お茶を濁している自分が悪い。
posted by よっしー at 01:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 世の中・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月12日

掃除学・・

何でも学をつけたら良いというものでもないです。が、ここ半月ほどほんまに考え込みました。何で俺は掃除ができへんのや、そもそも全く掃除する気になれへんのは何でや・・と。

気付いたこと。

■30分なら30分と時間を決めて、頭を使わず掃除に没頭する

そもそも「掃除ができた」という事態からして突き詰めれば終わりがなく、言語による定義ができないものなのである。

掃除をする前に比べて少しでも埃が少なくなっていたり、机や床に散らばっていた行き場のない物が減っていれば、それは掃除なのだ。

終わりがないから時間で区切るのである。目的がないから、頭を使わないのだ。「掃除ができた」という感覚を頼りに、少しでも多く体を動かすことに没頭した方が良いのだ。


■曜日や日時を決めて、掃除を習慣づける

おい、あんたは掃除したいな、と思うその瞬間まで、掃除を先延ばしにするのか?

「掃除をしたい」という感覚だけを頼りに掃除をするのだとすれば、それはいつでも、早ければ1ヶ月先、俺みたいに鈍感な輩だと1年先のうんざりするほど散らかった部屋を目の前にすることが運命付けられているわけである。

散らからなければ、掃除をする気にならない。散らかったときにはうんざりするほどの慣れない「掃除」という作業が待っている。

「掃除をしたい」という感覚に頼る限り、主観的な体験としては、いつも、掃除という慣れない作業が待ち構えていることになる。

慣れていないから、掃除をせなどうしようもない部屋を放置して、ますます散らかるという悪循環に陥ることもある。

したがって、「掃除をしたい」という主観的な感覚を以て掃除の時としてはならない。

月末にする、とか、週末の午前中に30分だけするとか、時間、場所を特定しなければ、あなたは掃除については既に負け組になるのが運命付けられているのだ。

ぐふっ(←負け犬)。


■日常の心得:要らないものは即座に捨てよ

興味のないダイレクトメール、包装紙等、要らないことが明らかなものは、「絶対に」机や床の上に放置してはならない。

掃除とは定期的にするものである。が、だからといって、掃除をしないときは無自覚に何でも散らかしておいて良いというものではない。

ところで、実際これを実行してみると、案外、捨てて良いかどうかわからないものがあるものである。

そのときは、この先1ヶ月(ないし任意の期間)でこれを使う機会があるかどうかを考えてみると良い。

俺はこの方法でうっかり、確定申告に添付できたはずの年金や保険の納付証明を捨てたことがある。しかし、再発行をして貰ったので結局何のダメージもなかった。

「要らないもの」はなるべく広く定義するのがコツである。

捨てて困る物が思いの外少ないことに、すぐ気付くはずである。


・・と、いうようなことをぐだぐだ考えた7月の上旬であった。
posted by よっしー at 12:26| Comment(2) | TrackBack(0) | その他教養 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月10日

体育会系になれぬ者

(独り言です・・)

関係性を生み出す駆動力の強さは、エネルギーの強さに比例するのではない。

関係性のあるところ、それを産む駆動力の勢いが強いときはその強さに対応した、弱いときにはその弱さに対応した、それぞれに強い力を持ったシステム内部の動きがある。

つまり、駆動力は常在するのだから、安心してシステムに内在する恒常性維持の仕組みに期待してよいのだ。

特別な意図的努力が必要なのではない。内部で駆動力に応じて動きだす物やエネルギーのやり取りを邪魔しさえしなければ良いのだ。

ときに、言語とは、この駆動力の勢いの弱さに対する補償であるような気がする。

なぜ理屈にこだわるのか、知り、割り切り、定型的な手順に落とし込もうとするのか。

それは、そうする方が圧倒的にエネルギーの節約になるからである。

力技が及ばぬから、簡略化しようという方向に動き出す。

体育会系や芸術系(?)になれぬ者が、文科系になったり理科系になるのではなかろうか?
posted by よっしー at 18:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月07日

地球というシステム、人間というシステム

先週書いた「表現」の話の続き。

人間は表現によって、関係をつくる。関係が機能しはじめたとき、「心が自律的に動く」体験をすることになる、というような話を前回書いた。

で、関係といえば、という話なのだが、哲学や宗教の分野では、「関係性」あるいは「関係規定性」というのがもっとも重要な術語として、あるいはものの見方としてあるのではないかと思う。

俺なりにこの概念を解説すると、例えば言語における関係性を考えてみる。すると、言語におけるどの要素(アルファベットのような文字、単語、文、文法的な要素・・)をとってみても、個々の要素の意味や機能は「全体」との関係によって決定されている、というような話である。

宗教では、仏教の根本的な教義の一つに「縁起」というものがあるが、これは万物が関係性のもとに、仮に我々の前に姿を現したものとして捉える考え方である。

すべてのものが、いちいち意識では把握できないくらいに深く絡み合い、連関しており、そのような連関が、例えば下駄の鼻緒が切れたとき、身内の誰かに不幸が起こるというような、原因・結果の系列において論じたらアホかと思われるような、それでいて深い意味的連関を持った、同時発生的にパッと起こるというような偶然において我々の前に姿を現すことがある。この連関を「真理」であると断言しているのが仏教やと思いますが、ちなみに俺はまだそこまでわかったとは思えていません。

さて、

この関係性について、松井孝典さんという、複雑理工学、地球惑星科学専攻の自然科学者がおもしろいことを言ってます、関係性というのは定義できないという話を言っています、という話を先日受けた講義で心理の先生が言ってはって、気になったので、岩波新書の本で松井孝典さんの主張を読んでみた。

ちなみに心理の話では、関係性については云々できないから、私は関係を取り上げるのです、というようなニュアンスで話が進んでいた。

松井氏の著書によると、「関係性」というのは、「システム」という全体を構成する要素間の相互作用のこと。そして、関係性の起源ついて、さらに次のように述べています。

松井孝典『宇宙人としての生き方』(岩波新書)より。

「では、その関係性はどうやって生み出されるのか。その内部、あるいは外部に駆動力があり、それによって物・エネルギーが動くことで関係性が生まれます。例えば機械では、いくつかの歯車が組み合わさって力が伝わり、互いの関係性が生まれ、機械として作動します。地球の場合には、大気とか海といった構成要素があり、例えば太陽からのエネルギーで暖められた海から水が蒸発し、その水蒸気が大気中で再び凝縮し、雨になって海に降るといった、物の出入りが互いの関係性になっています」

地球をシステムとして捉える場合、松井氏が「駆動力」として特定しているのは、太陽のエネルギーと、地球の内部から外部に向かってのエネルギーの流れの二つ(地球は中心ほど熱い)。地球システムの構成要素として特定するのは、一番外側から、磁気圏、プラズマ圏、大気圏、人間圏、生物圏、大陸地殻、海洋、海洋地殻、マントル、コア、などがありますが、システムを考察する際の構成要素は、「性質の異なる複数の構成要素で全体が記述できれば何でもよいわけですが」とあります。

この本には、地球が一つのシステムとして機能している例がたくさん出てきて、門外漢の自分にもすごく興味深かったです。そして、このような地球システムにおける構成要素の一つとして人間を考えようというのがこの本の話の趣旨でしたが、今俺が考えているのは、ここまで壮大な話ではありません。

例えば家族を、会社を、学校を、あるいは友人関係を一つのシステムとして捉えた場合、そのシステムがうまく機能するのは、あるいは全くうまく機能しない場合とはどういうときなのか、という話です。

あるいは、ある特定のシステムの要素として自分を捉えた場合、自分はこれからどうすべきかということです。

こういったことを考えるのに、自然科学のメタファーで人間を捉えるのも、非常に有益に思えます。

人間関係を機能させる「駆動力」って何なのだろう、とか。

人間関係の外に太陽の熱エネルギーがあり、人間関係の内に、中心部から顕在化するのを待っている熱エネルギーがある。このように言うのはいわゆる比喩ですが、何か重大な真理を含んでいるように思えませんか?

・・というようなことを、今なおごちゃごちゃと考えています。
posted by よっしー at 11:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月29日

人間の表現欲求は根本的なものだ、っちゅう話

(mixiより転載)

表現欲とは人間にとって根本的・・すなわち、食欲や性欲と同じくらい、生きるに際して本質的なものです、とまで言われればどう思うやろうか?

そんなあほな、いくら表現欲が強いものだといっても、まさか食欲・性欲等と同列とまで言うことはできまい、と思うのが通常やと思うし、俺もそう思ってきた。

が、妄想や幻覚といった症状をもっぱらとする統合失調症という重い精神病があるけど、それを病んだ人の症状の一番中心にあるのは「自閉」、つまり、他人に対して何かを伝えようとする表現欲求や能力がほぼ絶えて無くなってしまった状態であるのだそうだ。

妄想や幻覚というのはその意味で、自閉に伴って現れた副次的な症状に過ぎないとのこと。

表現が無くなってしまうというのはすなわち、人間として生きるということからは遠く離れた事態であるわけだ。

そして、講義をしてくださった先生(京大院心理で准教授をしてはる)が描画療法のようなカウンセリング技法を行う際、もっとも留意しているのは、いかにこのやり取りを守り促進する場を作るか、相手の表現を保証するために必要なこちら側の心構えや素養として大事なことは何か、といったことに尽きるようだった。

言葉のやり取りや気持ちのやり取りが極めて困難な、まるで禅問答のような患者さんとの会話の様子を伺っていると、この自閉という状態がよくわかる気がした。

さて、

このような表現が、同じ場を共有する2者の間で機能し始めたとき、「心が自律的に(つまり勝手に)動く」のだと先生はおっしゃっていたが、相談に来られた方にとってこのような状態を続けることは、心を手術するようなものであり、あまり気持ちの良いものではないのだそうだ。

それどころか、健康な人にカウンセリングをしたら確実に神経性になります、とのこと。

とはいえ、下手をすれば神経性になるような表現活動を求めて止まないのが人間だとすれば、人間いうのは何とも業が深いというか、病んだ存在ですよね。

・・と、昨日、今日と、このような話を、放送大学のスクーリング授業で聞いてきた。

先日週刊現代で読んだ秋葉原事件の犯人の家庭状況を見ると、子どもにこの「表現」を許さないという点では、つまり生活の細部にわたって、偏執的とも思えるほど徹底的にしつけと称したコントロールを親が行っているという点では、一貫しているなと思います。
posted by よっしー at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月25日

どうぶつの森にはまる(ゲーム)

3年前、ニンテンドーDSで発売され大ヒットしたゲームですが、これも買ってやってみました。

箱庭風の小さな村の中で、魚や虫を捕ったり、金目のもの拾い集めて売り払ったりして、家を建てるために知らぬ間にたぬきちが組んだ莫大な借金を返す一方、現実の借金とは違って期限がないので、のんびり花を植えたり、前述の魚等を収集・展示して眺めたり、それらの収集状況に従って徐々に増えてゆく村の動物たちとの会話を楽しんだりと、のんびり楽しめるゲームです。

姉が1年くらい前に買ったのに、いまだに毎日やっていると聞いて、そんなに面白いのかと思って俺も買って始めてみたら、ものの見事にはまりました。

昨日も徹夜です(汗)

DSほんま最高です。

タッチペンを使って画面をこする操作をしているだけで妙に心地良く楽しいし、ゲームの方も、プレイステーションほどキレイな映像ではないけれど、細部に制作者の細かい表現や遊び心、親切を感じます。

ニンテンドーDSは近年、俺のようにかつてはゲームを熱心にしていたのに、今ではほとんど興味を失ってしまった古いファン層(30歳から40歳くらい)への売上が伸びてきているそうです。

Wiiにも興味しんしん。操作法が従来のコントローラーから一転、直感的になるだけで、なんでこんなに楽しいのだろうと不思議に思います。
posted by よっしー at 10:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 遊び・趣味 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする