2008年01月28日

英検は不戦敗

おそらくは食中毒で深夜から吐きまくり、早朝のバイトさえ行けなかった。

今年中には取る!
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2008年01月26日

英検1級:1次試験の問題形式

明日の日曜日は試験である。今回で受かるのはちょっと無理っぽいが、いろいろ試行錯誤をしているうちに、何とか今年中には取れそうな気はしてきた。

初試験は何とか次に繋がるものを見いだせるよう、自分のベストを尽くしてがんばってみたい。

英検は周知の通り、筆記とリスニングが課される1次試験と、試験官との面接によって行われる2次試験とがある。明日行われるのは1次試験で、1次試験の合格者は、およそ1ヶ月後に行われる2次試験を受けることができる。

1次試験の過去問を見つつ、気づいたことをまとめておきたい。

**********

英検1級の1次試験は113点満点で、おおよそ6割強(70点前後)が合格のボーダーだと聞いたことがある。配点は、筆記79点、リスニングが34点。

筆記、リスニングともそれぞれ4つのパートに別れている。下記配点率は、1次試験の全113点に対する、各パートの配点の割合を示す。

○筆記試験・パート1 配点:25点、配点率:22.1%

 短文の空所補充問題で4択が25問。ほとんどが難しい語彙の意味を知っているかを問う知識問題である。2年ほど英字新聞をとっていた俺でも、自信を持って答えを書けるのは半分もない。語感等を頼りに何とか6割取れる感じだが、他の受験者もおおよそこんな感じのようだ。この問題で問われるほどの難しい語彙が、読んでいる英文で出てくるときは、たいてい文脈等を通して類推できるのが普通。証拠に、俺は次のパートの長文問題はふつうに9割方取れる。超悪問です(笑)

○筆記試験・パート2 配点:6点、配点率:5.31%

 長文の空所補充問題で、計2つの長文が課される。1つの長文につき3カ所の空所がある。内容をきちんと読んでいないと正しい選択肢が選べないものが多い。だが、逆に、TOEICと違って全体を精読せな解けないと割り切れるので、俺は英検の長文問題は好きだ。

○筆記試験・パート3 配点:20点、配点率:17.7%

 長文の内容一致問題で、課される長文は3つ。1つにつき設問が3つないし4つある。設問の選択肢の英文は、長文中の表現を微妙に変えているものが多いので、英文を読んできちんとイメージで内容を捉えられているかどうかが鍵になりそう。とはいえ、パート2と同じく、普段本を読むときに普通に内容を読み取る調子でいれば特に対策なく解くことができるので、俺は好き。

 たまに、1、2問、選択肢が紛らわしいものがあるが、そこは諦めが肝心。

○筆記試験・パート4 配点28点、配点率:24.8%

 200語のエッセイを、所定の形式で書かされる。200語というのは、日本語に訳せばおおよそ600字前後の文章になるので、かなりまとまった内容の作文である。

 2006年の第一回試験だと、次のような問題になる。

 「もし未来の世代の人が現代を振り返れば、どのような点で我々を賞賛するだろうか? あるいは/そして、批判するだろうか?」

 これをこの問題の場合、下記6つのポイントすなわち、

1、健康と医療
2、人権
3、国際関係
4、文学と芸術
5、倫理と価値観
6、科学における努力

のうち、3つを含めて、導入と結論の2段落を含む3段落以上の段落で構成して書く必要がある。日本語で書け言われても困るわ。途上国における貧困や飢餓の問題、環境問題、グローバル社会のあり方、現代の科学技術についてなど、時事問題を問うものが多い。普段からそういう問題意識を持っておく必要があるだろう。ニュースが苦手な俺には辛い。

○リスニング・パート1 配点:10点、配点率8.85%

 2者あるいは3者間の対話が全部で10あり、それぞれに1つづつ問いが付いている。文中の微妙に難しい部分を問う嫌な問題が多い気がする。

○リスニング・パート2 配点:10点、配点率8.85%

 5つのエッセイ的な文章が読み上げられ、その内容に関する質問が続く。問題は一つの文章につき2つ。全体の内容が読み取れているかを問う素直な問題が多い。

○リスニング・パート3 配点:10点、配点率8.85%

 館内放送や、各種案内等、日常生活に関する内容の英文が5つ読み上げられる。問題は1つの文章につき1つ。問題用紙には、それぞれの文章に対して、今のこちらの状況を示す短い文章(例:〜時の飛行機に乗りたい)も付いていて、解答はその状況に合うもの(例:どこの窓口に行くべきか)を選ぶことになる。つまり、全体を聞くのではなく、解答するのに必要な一部の箇所を「拾う」ことが必要となる。ある種のアバウトさと、必要な情報を聞き取る注意深さが必要。苦手。

○リスニング・パート4 配点:4点、配点率3.54%

 BBC等のラジオのインタビューを1つ聞いて2問の問いに答える。割と素直に内容を問う問題。

**********

本番は明日。

直前ともなると、エッセイで問われそうな時事問題について考えるくらいしかもうできないが、がんばろうと思う。
posted by よっしー at 08:55| Comment(0) | TrackBack(1) | 語学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月21日

読んだ本、2008年1月

ああ、体が羽根のように軽い・・。健康ってすばらしい。

ここにも散々書いたが、寝正月の暇つぶしのつもりで買い始めてどんどんはまってしまった河合隼雄先生の本もやっと一段落ついた。短い期間にたくさん読むと、おっしゃっていることの意味がどんどん繋がっていく感があり、新しい発見がいっぱいあって、自分的にはかなり有意義であった。ここ1ヶ月ほどで読んだ本を記念にまとめておこうと思う。


●『対話で探る「新しい科学」』講談社+α文庫、2001年(1994年出版されたものを文庫化)
 共時性や、(客観的観察ではない)参与的観察、研究者や研究対象の主観性に正面から取り組むことなどといった、従来の科学的パラダイムから見れば白眼視されることが確実なもろもろの事柄について、さまざまな分野で第一級の成果を残している科学者の方々と対話をする。容赦なく難しいが、刺激もそれだけ大きかった。


●『こどもはおもしろい』講談社+α文庫、2005年(1995年出版を文庫化)
 現場の小中高の個性的な先生方との対話。子どものおもしろさを引き出す先生の工夫、力量に感激! すごく読みやすいのに、もの凄く考えさせられた


●『ユングと心理療法』講談社+α文庫、1999年(1986年出版の『心理療法論考』上巻を文庫化)
 もともとは専門家のために学術誌などに発表した論文をまとめて出版したものだそうだが、記述が凝縮されている分、河合先生の全体的な主張がえらくわかりやすかった。が、かなり難しめ。続巻は同文庫の『日本人と心理療法』。こちらは売り切れていたのでまだ読んでない。


●『カウンセリングを語る(上)』講談社+α文庫、1999年(1985年出版を文庫化)
 四天王寺というお寺のカウンセリング研修講座における先生の講演記録。河合先生自身は講義や講演をそのまま書籍化されることにものすごくためらいを感じておられるそうだが、おもしろい、頭から読んでスラスラ理解できる、内容が深い、ご自身の事例の話が(おそらくは不本意ながら)諸処に出てくる、といった点で、書き下ろしの本には絶対に無い価値も含んでいておすすめ。下巻は売り切れだったのでまだ読んでいない。


●『人の心はどこまでわかるか』講談社+α新書、2003年
 河合先生ご自身ともお付き合いのある、病院等で心理職に携わっている方々から改めて募った質問に答えるという形で記述が進んでいく内容。同業者に対するものなので、他の本よりは実際的な内容が多い。また、職業意識というようなことも関わるためか、質問者に対して直接向けられたものではないが、○○ではダメだろう、みたいな厳しめの発言も多い。当該の仕事の大変さがしみじみと伝わってくる本。


●『こころの天気図』三笠書房・知的生きかた文庫、1994年(1990年出版を文庫化)
 毎日新聞「はないちもんめ」紙上で連載されていた河合先生の話をまとめたもの。聞き手は児童文学者の工藤直子さん。和気あいあいと話が進んでいる様子がよくわかります。難しい話でもまっすぐに相手に届く言葉で話せる先生の力量には圧巻。っていうか、こちらもずいぶん参考になった。ややほぐしすぎて、河合先生自身の心理学についての全体の主張はぼやけるようには感じたが、この本はこの本で、他にはない価値があります。


●『河合隼雄全対話(2)』第三文明社、1989年
 さまざまな雑誌や機会において行われた超一流の学者先生との対話をまとめたもの。コーランの翻訳で名高い井筒俊彦先生と、ユング派の中でも急進派とされるジェームス・ヒルマンさんとの鼎談はすごかった。日本の庭の話なども出てきます。


●『物語と人間の科学』岩波書店、1993年
 1987年から1991年にかけて、さまざまな機会で行われた講演をまとめたもの。専門家向けの講演や大学での講義が主。表題には「物語」とあるが、あとがきによると、1987年所収の講演では、先生の考えはまだ、「物語」というキーワードには結実していなかったそうである。

 先生の京都大学での最終講義も含まれている。布置や共時性といった事象を心理療法家としての先生がどれほど重要視し、把握しようと努力しているかということがよくわかる。演題はずばり、「コンステレーション」(=布置)。たとえ専門家向けとはいえ、先生の講演や講義はほんとうにわかりやすい。


●『昔話と日本人の心』岩波書店、1982年
 見るなの座敷、鶴女房、浦島太郎といった昔話を、日本人の自我が無意識のしがらみから自立性を得る過程という筋で論じたもの。ご自身が学ばれたユング心理学を、日本人に合うものとして再構成することがライフワークであったという点では、河合隼雄先生の最重要文献の一つということになると思う。

 一般に受け入れられている考えとの違い、先行的な研究との関連等、配慮すべきことが多すぎて、全般の筋を読み取るのは相当しんどかったが、面白かった。

 蛇足ですが、付録に昔話もちゃんと付いています。関敬吾さんという昔話研究で有名な民俗学者が編集した昔話集からのものが多いですが、我々が通常よく知っている「まんが日本昔ばなし」等で知っている話に比べて衝撃的だったり残酷だったりする話が多くはっとさせられました。


●『対話する生と死』だいわ文庫、2006年(1992年出版の本を文庫化)
 表題に「対話」とあるが対話集ではない。雑誌等で発表された文章を「生と死」というテーマに関連が深いものという方針で編集したもの。とはいえ、分量・内容ともかなりばらつきがあり、やや読みにくかった。




・・これで読書は一段落、のつもり。
posted by よっしー at 11:19| Comment(0) | TrackBack(1) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「無意識」が「無自我」を補償している

昨日の日曜日、丸一日寝ることができ、やっと本調子に戻った。咳だけはどんどん激しくなっているが、体がそれだけ元気になったということなのかもしれない。やっと、いつもの朝刊配達を終えても、体がフラフラしなくなった。健康のありがたみをしみじみと感じます。。

先日読破した本で、気になった箇所だが、下記に引用した中にある「若い女性」については、浦島太郎の乙姫などを想像するとわかりやすいかもしれない。類話において、乙姫の背後に老人の存在が窺えたり、帰還する浦島に汚い身なりをした子どもがついてくる話があるそうだ。

「ここで、われわれの物語に即して言えば、地上に存在する『無』あるいは『無自我』の底に、われわれは不思議なトライアッドの存在を認めるのである。それは、老人、若い女性、小さい男子、によって構成されており、また一種の『構造』をもっている。」(河合隼雄『昔話と日本人の心』)

夢あるいはおとぎ話といった無意識の側の世界のあり方は、我々の日常の意識のあり方をうまく補ってバランスをとるようにして現れる。

その無意識において現れてくるのが、日本人の場合は「構造」すなわち秩序だというわけである。西洋人の心理についてのフロイトやユングの観察では、無意識において現れてくるのは、性とか、悪魔とか、誘惑者とか、とにかく秩序の側からいうと正反対のものばかりであったことを思い起こすと、なかなか衝撃的な指摘であるように思われる。

実は、俺も、先日河合隼雄先生のこのような説明を読む前から、このように感じてきた。

ユングの場合は、無意識が人物像として現れたもの(ユングの心理学においては、男性なら理想の女性像、女性なら理想の男性像として現れるとされている)は、誘惑者として現れたという。でも、俺の場合はまったく違った。それとは逆に、倫理とか正義とか、自由とか、秩序とか、法とかを噛んで含めるように説き聞かせるような知的な女性だった。これはよっぽど俺の普段の意識的態度がむちゃくちゃなせいだろうと思っていたが、河合先生の言葉を借りれば、俺の意識はむちゃくちゃというよりは、むしろ「無」だったわけである。

そして、

「約束が人との繋がりを作る。だから約束は守らなければならない。できない約束はそもそも初めからしてはいけませんよ」

などといったことを諄々と説いて聞かせてくれるような、おおよそユングの言う「誘惑者」からはほど遠いわが無意識像は、日本人の意識の発達という、河合隼雄先生がこの本を通して記述しようとしてきた基本的パターンとほとんど違わないものであったのだ、ということがわかり、非常に感動した。

老人もちょうど、こういった「正しさ」を遂行していく上で生じる息苦しさを補償するような形で現れてきた。子どもは、これからの課題なのだろう。あまりはっきりしたイメージではない。

・・ここ数年は、夢にせよ、イメージにせよ、ここまではっきりと現れることは無くなった。俺自身の「意識」が、やや秩序立ってきたのだ、ということだろう。

ちなみに蛇足ですが、河合先生のこの本を通しての主張である、「日本人の自我は女性像として現れる」ということについては、一般的な日本人なら、男性にも女性にも当てはまるそうです。
posted by よっしー at 08:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月20日

本は読まない方がいい

休み明けの火曜日あたりから調子を崩し、やっとましになってきた。喉と胸が痛くて、咳をすると苦しい。バイトの新聞配達が終わるとしんどくてフラフラになる。

とにかくしんどいので、家にいる間はずっと寝ていたが、いつもの如くあまり誰ともしゃべらず、座って姿勢を保つのがしんどいので、本もテレビも見られずの生活だったが、ひたすら無為の5日間はなかなか有意義だった。

まず、英検の勉強や趣味の読書で相当頭が疲れていたことがわかった。ふと思い立って携帯ゲームをすると、最高得点をどんどん更新できるので笑けた。

普段だと、いろんな見たり聞いたり読んだりしたことの印象等で頭がボンヤリしているためかもしれない。

大学生のとき、叔父から「本は読まない方がいい」と言われたことがあるが、パッと見読書家の叔父が言うくらいだから、似たような体験をしていたのかもしれない。それか、また別の理由もあるのか。

昨日、英検の受験票は届いたが、試験日直前の大事な時期に急ブレーキがかかった気分だ。まあ・・どうがんばっても今回は無理そうだけど。

ともかく、本は読むなとか、外に出ろとか、いろいろそういう布置ができているように思えるが、大学辞めてから正社員経験一切なしでここまで来ている自分としては、英検1級だけは今年中に取りたいなぁとは思っている。

自分自身と脳内会議をする必要がありそうだ。

もう少しだけがんばってくれまへんか? と。

・・もし、自分が妥協するとしたら何だろう。
posted by よっしー at 07:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月15日

現世に戻るには

象徴的な表現ですが、一度竜宮城のような「他界」に行った者がこちらに戻ってくるのは非常に難しいそうです。

河合先生によると、心理療法家にとっての他界とは無意識界をさすそうで、治療の実践においては、

「患者と共にその無意識界にはいって行きながら、外界とのつながりを失わないようにすることは重要なこと」(河合隼雄『昔話と日本人の心』)

だそうです。浦島太郎の失敗を犯さぬようにせねばならないということで、次のようにも述べられています。

「浦島はこの点でまことに不用意であった。亀姫に誘惑されるままに結婚し、故郷が恋しくなると余り考えもせずに帰ってくる。そこで、亀姫が『開けてはならない玉手箱』をわたしたことは意味が深い。ここで浦島は禁止を守りぬく意志をためされていると考えられるからである。退行を創造的ならしめるためには、そこに新しい要素が出現し、主人公は努力を払わねばならないと述べたが、この点、浦島は努力がなさすぎたのである」(同上)

あの世はともかくとして、この世と自分とを繋ぐ絆は何なのだろうと考えてしまう。

この世との絆が、意志や努力を産む側面もあると考えられるからです。
posted by よっしー at 09:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

無意識の無時間性

無意識の無時間性について、河合先生が挙げられた例にハッとさせられたので引用する。

「あるいは御伽草紙の竜宮城の叙述によれば、東の窓からは春の景色、南には夏、西には秋、北には冬の景色が見えたとあるが、これは竜宮城が時間の法則の支配を受けないことを如実に示しているものと思われる」(河合隼雄『昔話と日本人の心』)

実は、俺の「あの世イメージ」は、この四季の部屋である。一時、もうあかんと思ったとき、春の部屋は開けてみた。桜の並木道を一人ぽつんと歩いていたが、その後、いろいろとありがちだが大変勇気づけられる展開があって、その後俄然元気が戻って今に至っている。

引用した河合先生の本は1982年の刊であり、上記箇所は一般の精神分析の用語との比較のため、「無意識の」無時間性という関連であげられた話だが、先生は一般の人に深層心理学についての理解が及ぶにつれて、「無意識」という言葉をほとんど使わなくなった。お弟子さんにあたる方々の講義を直接聞いてみると、その傾向はもっと顕著である。

ここまで俺が引用して来た語を用いれば、それはおそらく「無意識」ではなく、「一瞬」とか、我々の人間存在にいつでも伴われていると仮定される、「共時的現実」といったところになるだろう。

つまり、こちらの話に限ってみると、俺にとっての四季の部屋は、日々の生活において、俺自身の認知、判断、およびその後起こる出来事の展開のすべてに、いつでも、どこでも、必ず、伴われているのである。

俺は今、たった一人でとぼとぼと歩いているのではない。
posted by よっしー at 09:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月14日

新年会

総勢7人でアジアンバーでしゃぶしゃぶ。
すごい楽しかった!

ふと気づいたが、こういう機会がないと、平気で半月以上、挨拶以外誰ともしゃべらないこともあるほど。

話し掛けると嫌そうな顔をするので、同居中の父とはほとんどしゃべらない。男所帯などはこんなものかもしれないし、とり立てて退屈もしないのであまり気にはしていないが、俺個人の問題としては、ちょっと困ることもありそうやなと思った。言葉がすぐ出てこない(笑)

あと、いろんな経緯があって、なんか半年ぶりくらいに車の運転をした。うっかり方位磁針を忘れてしまったので、迷いに迷った。

Tさんご夫妻のお腹のお子さまの話にはなんかジンと来た。自分たちが生まれ、育った後には、親となって、生み、育てるサイクルが来るのだ。例えば自分の生活に、子どもをはぐくむ種類の環境は、ふところはあるだろうかというとなかなか辛いところだ。

店の人に撮ってもらった写真を見ると、一番楽しそうに写っているのは俺だった。和光デンキ・・。

昨日の話の続きで言うと、なんだかだ言って内向きが過ぎる、もっと外に出なあきまへん、という布置ができているように思う。

偶然のように起こる様々な出来事が、意味のある連関を成して何かを訴えているように思えることもある。

出ろ、と運命が言う。

そして、出るとええことあるで、とも運命は言っている。

擬人的に言うとこんな感じやろうか。

運命は大阪人。
posted by よっしー at 07:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月13日

布置を意識化する

意識化することで、運命の奔流の中にも自立的な動きを加えることができる。呑まれるのではなく、「歩む」ことができる。

では、意識化するには?

物語る必要がある。

物語るには?

聞く者がいること。

そして、その聞く者は、善・悪の判断は差し控えて、一人間としての限界はありつつも、誠実に受け止めること、聞くこと、関わり続けることが大事である。関わる中で、物語が紡がれてゆく。物語る者は徐々に、それまでは不変に思えた運命に対して、意識的なコントロールの及ぶところを見いだすことができる。

だが、この「善・悪の判断は差し控えて」というのが俺にとっては非常に難しい。

つづく(↑)
posted by よっしー at 08:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『昔話と日本人の心』

英検の試験日まであと2週間。寝正月の暇つぶしのつもりだったのに、臨床心理学者、河合隼雄先生の本にどっぷりとはまってしまい、抜け出せない。

毒を食らわば皿までか。

しかし、とりあえずもう2、3日で一段落付きそうだ。今、読んでいるのは、先生ご自身がご著作の中でももっとも重要視されていたものの一つ、『昔話と日本人の心』。やたら難しく感じるが、「日本人の自我」、すなわち「日本人のアイデンティティ」の獲得過程を日本の昔話の象徴を配列していくことで述べようとしたものである。ユング心理学において必須文献としての位置づけであるエーリッヒ・ノイマンの『意識の起源史』の日本版とも言えるほど、記述に意気込みが感じられる本である。

『意識の起源史』は相当前に読んだので詳しい内容は忘れたが、世界史的に見てもかなり特殊な西洋近代的自我が、無意識のまどろみから自立性を獲得していく過程を、神話の象徴を追ってゆきつつ述べたものである。ユングの言う元型的イメージを、一つの発展過程として纏めたものであり、難解なユングの元型論の内容がすっきりと頭の中で整理でき、感激したものだった。

ノイマンの本では、自我が「男性」の英雄として登場し、竜殺し、結婚を経て、その自立性及び無意識との関係を回復していく過程を捉えていたが、こちらの河合先生の本では、そもそも日本人の自我は「女性」として表せるのではないか、という問いかけから記述が進んでいく。

まだ全部読んでいないが、続きを読むのが楽しみだ。

1982年の刊行。まだ河合先生があまり表舞台に出ていなかったころだ。
posted by よっしー at 07:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月11日

易・一瞬・共時性

ユングが易に興味を持ったことに関しての河合先生による説明だが、ここで用いられている「一瞬」という言葉は、先日引用した、物語や音楽が記述しようとしているものだとして河合先生が別の箇所で述べた「一瞬」と同じであるように思う。

引用。

「それに対して易の言っているところは、そういう事象を経時的にみるんじゃなくて、共時的に、ある一瞬にサッとすべてのことが関連を持った全体として生じると言うんです。そのときに、何が何の結果であるかと言うよりも、全体としての布置を見る。それが易の根本なわけです」(河合隼雄『河合隼雄 全対話』第2巻)

すると、易というのは、ありうる全体的布置の総カタログである、と言えると思う。

人それぞれが、人それぞれの一瞬、つまり布置の中にいる。してみれば、易が示す64卦、さらにはそれに加えて、個々の卦において動く爻がどれであるかに対応して記述される卦の状況や変化のすべては、人間のあらゆる運命というか、状況やその方向性のすべてを列挙したものであると言えそうである。

丸々易の結果を信用しているわけではないが、その結果には、自分なりにぼんやりと持っていた見立てや思い込みの盲点を突くような鋭いものが多く、唸らされるものが多いのも実際のところである。

易はみだりに立てるべきではないというようなことを孔子が述べていたように思うが、布置に対する感覚を磨くためにも、しばらくはこまめに易占をしてみようと思う。
posted by よっしー at 06:50| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月10日

日本人は「場」アイデンティティ

河合隼雄先生は、箱庭療法によって来談者によって作られた箱庭を、先日までずっと俺が書いてきた意味での「物語」と関係のあるものとして捉らえておられるように思う。

箱庭作品から物語が感じとれるとか、物語が展開していくような感を受けるとか、そのように述べられているのを別の箇所で見たことがある。

そのように、物語と強い関連性のある箱庭について、それをさっき書いた「アイデンティティ」との関係で述べられた一文があって、読んでいて深く感銘を受けたので、やっぱり引用しておきたい。

「とくに、日本の人につくってもらいますと、何の気なしにつくられるものの中に、その人のいわば広い意味でのアイデンティティを支えるもの、そういうものが出てくる。そういういわば『場』といいますか、それを土台として、なにか非常に不可解な場の中で『私』というものがそこに位置づけられている。それも『私が』というのとはちがって、『場』のほうからスーッと『私』というものが浮かび上がって来る。そういうことによってその人が進んでいくということがあるわけです」(河合隼雄『物語と人間の科学』)

つまり、言葉によって、「私は神の子だ」というふうに明確に規定するのとは全く違う種類の自己規定を日本人が行っていると、そういうことを言っておられるように思います。

俺自身は、言葉によって規定する方が性に合っているので違う道を行くつもりですが、こういうことを知っていると、何か今までここにも散々書いてきた、我が「日本人」的在り方への個人的な怒りや恨みも和らぐ気がします。

少しほっとしました。
posted by よっしー at 20:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あいまいだが有益な言葉

言葉には、客観的概念、つまり、いつでも、どこでも、誰が見ても、必ず○○であるというような何かを示すものと、そういった、いつでも・どこでもみたいな厳密な普遍性は主張できないが、何となく人々の頭の中にぽっと浮かび上がっているような、それでいて何かしらの合意可能な意味境界があると感じられるようなもの(自由とか、正義とかいろいろ)とがある。

「心理学」という学問全体でいうと、ごくごく亜流に属する深層心理学の用語には、後者の類のものが多い。

それらはあまり多用すると、どこかいかがわしさを感じさせられるものとなってしまうので注意が必要だが、概念との違いが明確に意識されている限りでは、種々の実践的活動において非常に有効なものである。

ここでは、そのような言葉の一例として、「アイデンティティ」が挙げられているが、その意味するところについてはここでは置いておく。言葉あるいは専門用語に対する態度として、読み返したい箇所があったので、いつもの河合隼雄先生の本から引用。

河合先生の本については、寝正月の暇つぶしのために数冊読むだけのつもりだったが、なんか止められなくなってしまった。

「つまり、アイデンティティというのは、みんなが普通の客観的な科学で使う概念というものではない。あることについて、できるだけかっちりと概念を決めてことばで定義し、それを使って論理的に一つの学問を構築するというのはわかりやすいのですけれども、われわれのようなこういう深層心理学をやっているものは、そういう概念としては把握できない、いくらつかんでも何か残るという、そういう不思議な言葉を発明して、そしてそれを使いながらみんないっしょに考えていく、そういうことをやっているわけです」(河合隼雄『物語と人間の科学』)
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2008年01月09日

「物語」とは、一瞬を人に伝える一手段である

長いけど、何度も読み返したい箇所なので引用する。いつもの河合隼雄さんが、『とりかえばや物語』について述べた部分。

「しかし、自分の『今』の一瞬を感じてみると、内部で男的なものや女的なものや、いろんな感情が目まぐるしく渦巻いているのを実感されると思います。その一瞬を克明に描写すれば、見事にひとつの物語になるくらいに。
 そんなアホなと言われるかも知れないけど、モーツァルトが、交響楽をどうやって作曲するのかと質問されて、こういうことを言っているんです。『私は一瞬のうちに、そのすべてを体験しているのです』と
 一瞬を人に伝えるのに、音を使えば音楽になり、言葉を使えば物語になるのではないでしょうか。・・」(河合隼雄『こころの天気図』より)

ちなみに、多分ユングなら、この「一瞬」を表現するのに、絵を用いる人もいる、ダンスを通して行う人もいる、と、言うように思う(似たような文脈で、こういうことが書かれているのを見たことがある)。

そして、あらゆる表現者が表現しようと苦悶する対象は、この「一瞬」であり、その一瞬とは、無限の多様性をもつ、ある一人間をとりまく広大で雑然とした世界に対する「こちら側の」対処の仕方というか、状態を示している。

こちら側の状態は当然あちら側の事情も反映したものとなるのは必至だから、ある一人間の一瞬には、世界の在り方も色濃くその影を落としていることだろう。

この、人それぞれに異なる「一瞬」を読み取る力、その「一瞬」を生きるその人が十全にその人の可能性を発揮できるには、どう自分が関われば良いかということに関して鋭敏な運動感覚を持った者が、カウンセラー、あるいは心の治療者である、ということが言えるように思う。

・・まあ、カウンセラーとは、みたいに、今、このように語る俺自身は、もしそのような仕事に自分が取り組むとすれば、とてつもなくしんどくなり、逃げ出したくなると思うのだが。

ただ、自分がすごく尊敬している人がいて、その人の生き方・考え方を確実に引き継いで、すごい話を聞かせてくれるK先生やらY先生がいる。そういう方々が、一体何を考え、何をしているのか、どう生きているのかというのは、もう10年近くずっと気になっていることである。
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relate - 物語る

物語は英語でstory、では、そのようなお話を「語る」のはどう言ったらいいか? 河合先生の提案だそうです。

Please relate your dream.

(あなたの夢を話してください)

relateには、「関係付ける」という意味もありますが、「話す」の意味でも使える割とありふれた表現です。ただ、こうすると、storyという語がはっきりと含意するような「物語」のニュアンスは不明確になってしまうそうですが。

ともあれ、以上の事実にも象徴的に現れているように、物語には、「繋ぐ」働きがある。何と何を繋げるかといえば、世界と自分を繋げる。

あなたをも含めた世界と、わたしを繋げる。

濃密な意味を持った空間として、私にとってあなたは誰か、これは、それは、あれは、何なのか、そしてつまるところ私は誰かということが、ある人が物語を物語るときに、形になって現れてくる。

それぞれの人が持つ、自分の物語を尊重する気持ちは持っておきたい。

と、同時に、俺自身についても、日々目の前に生起するすべての出来事が、自分によって物語られるのを待っている、ということを忘れないようにしたい。

それが、「意識的に」日々を過ごすということに繋がるはずだ。
posted by よっしー at 13:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月06日

「一体感」の中には、「関係」は存在しない

メモ。

いつもの河合隼雄さんによる、「自我」の簡易的な定義を目にして思ったこと。まず引用。

「自我はわれわれの意識の主体であり、それ自身の統合性や、他との関係などの機能をはたらかせるものである」

「他」との関係が結ばれる前提として自我を捉えている点に、個人的にすごく感銘を受けた。

と、いうことは、自他がまだ分離されていない状態、つまり、お母さんと子どもとの間に置けるような、誰もがどこかで非常に恐れつつも憧憬してやまないあの「一体感」の類は、河合先生の中では、「関係」とは見なされていないわけだ。

河合先生のお弟子さんにあたる方の講義などを聞いていても、「関係」という術語にはどこか、強い意識的な作用あってこそのものであるようなニュアンスを感じる。

母の手の中、あるいはすべてを許し合えるような甘美な一体感の中には、「関係」はない、ということで良いのだろうか?
posted by よっしー at 09:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

滞留させてはいけない

エネルギーは滞留するといろいろ不都合を起こす。循環させるのが大事で、それは人間の心理的なエネルギーについても同様なのだろう。

犯人探しはしない。

当事者の皆が、自分では制御できないエネルギーの犠牲者となっていることがある。

そして、その循環を促し、再開させる者は、溜まりに溜まったそれの最初の勢いで、傷付いたり、大怪我をしたり、ときには命を落としたりすることもあるのだろう。

心を治す人、癒す人、治療者とは、何者であるか、ということを、だいぶ前に書いた自己規定の話の続きでここ半月ほどぼんやりと考えていたが、「治す人は傷つく人」という、割と世界中に見られる神話的イメージ(含、十字架のキリスト)が生まれるのは、このあたりの事情もあるのかもしれない。

自分に関して言えば、まあ、一生に数回なら、そういう目にあってもいいかなと思う。

犬死だけは断固拒否しますが。
posted by よっしー at 03:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月05日

ツァラトゥストラ

大嫌いだった。

誇大妄想に捕われたかのように大言壮語して「真理」を語る、あの主人公が。

けど、今、読まなあかんのかも知らんな。

あれが、人間なのかも知れない。
posted by よっしー at 00:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月04日

還流

上の苦しみが、下へ流れる。

では、その苦しみは一体、次にどこへ行くのだろう?

生があれば、死がある。

ならば、

死から生へと向かうサイクルもないと、論理的にもつじつまが合わないじゃないか、と語ったのは、毒杯を仰ぐ直前のソクラテスだった(『パイドン』より)。

確かに、一種象徴的な表現ではあるが、死者が生者として復活するというサイクルが無ければ、今のこの世の中は、あらゆる生き物の死体や肉片で充ち満ちていることだろう。

肉体が、生き、死に、生きる。そしてまた死ぬ。

そしてその、生きて死んで、また生き返る生命の同一性を保持しているのが「魂」である、というのが彼の主張だったと思うが、そういった考えに浸り切っていないとやってられない自分がいる。

なんでこいつらはこんなに自分をえらいって思えるねん、と、父を見ていていつも思う。

が、しかし、もしそういったささやかな誇りやプライドさえもろくに満足できないとしたら、それも悲しいものなのかも知れない。

弱き者たちの夕暮れ
さらに弱いものを叩く

命に良いも悪いもない、と、思えるようになるのだろうか?

虐待の記事を本や新聞で見るたび、怒りやらいろんな感情で何日も気分が悪くなる。

いじめなど論外だ。それは間違いない。しかし、たとえ力の弱い者への攻撃に向かう種類のエネルギーといえども、もともとは、そのエネルギーに、黒も白も、善も悪もないのだ。それが外に現れた結果、たまたまそれが破壊的な作用を持ち、時に人が何人死んでもおかしくないものとなるのだ。

・・と、このように本気で思っておられる方が、もう既に亡くなってしまったけれども、俺が今、一番尊敬している方だったとつい先日思い知り、気分が沈んでどうしても何か書かずにはいられなかった。
posted by よっしー at 21:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月03日

易の占い方(2)

じゃあ、実際、「経」に沿って「巽」の卦を見てみましょう。

まず、卦の全体について。

「巽(そん)は、小しく亭(とお)る。往くところあるに利(よ)ろし。大人を見るに利ろし」

「亭る」の「亭」、「利ろし」の「利」は、易経を通して繰り返し出てくる表現で、英訳では、亭には'success'(成功する)、利には'further'(助成する・促進する)という訳語が当てられています。英訳されたものを参考にこの箇所を現代語訳すると、

「巽。小さいものを通しての成功
共に行く者を見いだす者、
大人物を見る者は助成される」

となります。「小さいもの」というのは、小さい力のこと。つまり、暴力や急襲といった人目に付く大きな力ではない力を指します。そのような小さい、つまり、「巽」が含意する風のような、徐々に浸透する力は、秩序を生み出すことができるような大人物に従うことによってのみ、その目的を達することができる、と、英訳版のヴィルヘルムによる解説にはあります。

「初六。進み退く。武人の貞に利ろし」

「貞」も易経で頻繁に出てくる表現です。英訳では、'perseverance'つまり、根気強さや忍耐といった意味です。英訳を参考にした現代語訳は次のようになります。

「初六。進み、退くに際しては、
武人の忍耐力が助成する」

ヴィルヘルムによると、巽(風)の従順さというのは、優柔不断に陥りやすいものだが、このような状況では、軍隊における兵士ような、命令に従って断固として、退くときは退く、進むときは進むといった決意が必要ということです。

「九五。貞(ただし)しければ吉にして悔亡ぶ。利ろしからざるなし。初めなくして終わりあり。庚(こう)に先だつこと三日、庚に後(おく)るること三日。吉なり。」

現代語訳は次のとおり。

「九五。忍耐が吉をもたらす。
悔いはなくなる。
助成されないものはなく
始まりはないが、終わりはある
'変化'の前に3日、後に3日、吉である」

「始まりはない」とは、「始まりは良くなかった」という意味。しかし、何らかの良い結果というか、吉兆があるということです。

「変化」が要請されているわけですが、変わる前にも、変わった後にも、慎重に事を進めることが大事で、そうすれば吉だ、ということだそうです。

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そして、「爻」が動いた後は?

もう一つ見るべき卦がありましたね。爻が「動いた」後の、

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です。第26卦の大畜で、意味としては、大きな畜、すなわち、家畜を飼い慣らす大きな力ということ。

爻についての説明は前述の通り見ません。すると、見る箇所は次のようになります。

「大畜は、貞しきに利ろし。家食せずして吉なり。大川を渉るに利ろし」

現代語訳では、

「大畜。忍耐が助成する。
家で食べないことが吉をもたらす。
大きな川を渡る者は助成される」

家で食う、すなわち、自活するのではなく、昔なら役所等で給料をもらう。つまり、この卦で示唆されているような大きな創造力を保持し、蓄積するには、王によって認められているような、強力で明晰な人物に就くことが必要とのことみたいです。そうすることで、大河を渡るような大変困難な課題を成し遂げることができる、ということだそうです。

文庫版の解釈を見るとかなり違うみたいですが、そこは、訳者のヴィルヘルムが実際中国人の学者に就いて約10年もの間この訳業に本気で取り組んだこと、そして、この訳業が、心理療法の実践を行っていたユングに確かに認められたこと、シロウトとしてはそういったことを当てにしてもいいんじゃないかなと思います。

ブランド主義、みたいな。・・すんません。

日本語で良い本があったら是非教えてください。
posted by よっしー at 08:50| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする