目的因とは何か
「ひと」
という言葉を見る。
そこに、
「ひ」と「と」
という二つの音素があるが、「ひ」も「と」もそれぞれ単独では、我々が「ひと」という言葉の並びで想起する「人間」という意味内容は何一つ含んでいない。
「ひと」という言葉はそれだけで一つの全体である。
また、分析して把握された人間の臓物は、それだけを見ると、グロテスクな物体に過ぎない。それにも関わらず、我々が通常意識するのはあくまで、それらが統合され、飲み、食べ、排泄し、生殖する、人体という「全体」であり、その構成要素として臓物は、連関して、例えばこの人、あの人の中で、「全体」として機能している。
このような全体を識別したり感じとったりできる主観的なイメージが我々には用意されているが、この「全体」を指向して「ひ」や「と」のようなバラバラの部分を意味のある単位に纏めあげる目標となるイメージのこと、あるいはそのイメージに対応する(と想定される)実在のこと、これを目的因という。
哲学の歴史はカントに終わりカントに始まると称せられることになった記念碑とも言える、彼の著作に、
1、純粋理性批判
2、実践理性批判
3、判断力批判
という三部の批判書があるが、これらは順に、人間の、
1、知(客観的な知識)
2、意(意志)
3、情(感情)
を扱っている。
上記の目的因を感知できる人間の能力については、3の判断力批判、すなわち、感情についての考察において扱われているのは驚くべきことだと思う。
我々が関知する「全体」は、「ひと」のような単語の意味内容だけではない。言葉なら、文という全体だったり、段落という全体だったり、書いた著者の意図という全体でもある。
それどころか日本語という全体でさえある。
大好きな人を目の前にしているとき感知している全体は、それまでにその人と過ごしたすべての時間であったり、今のあなたとのしっくり感であったり、次に語る言葉であったり、当面話していたことであったり、極大から極小まで、闇夜を一瞬で切り裂く雷光のように、パッと一気に浮かび上がっているものであり、特定のあれが、これが、全体として浮かんでいる、というような知的な把握ができないものである。
これらの全体は、感情で把握される。感情が、この「一瞬」に続く状態を、言葉を、表情を、立ち居振る舞いを、喜びを、悲しみを導くのである。
「全体」は、知的に把握することができない。すなわち、定義ができない。
今、この一瞬に入り込み、状況に没入しているうちに知らずに踏まえられ、感じ取られているものなのだ。
「全体」は感知される。すなわち、「全体」を把握するのは感情の機能なのだ。
物欲に溺れたり、地位・名誉を渇望することが愚かなのは、それらが着々と蓄積されているという知的な仮象に欺かれて、この決して知的に把握されることのない、「一瞬」という「全体」の質の低下が忘却されてしまうことにある。
2008年08月14日
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