2008年11月14日

寒いから朝から酒呑んでそろそろ憂鬱モードへ

ほんまになんでやろうか。憂鬱になる。何もかもが嫌になる。悲しくなる。そして、寂しくなる。

コブクロの「蕾」を聞いて泣きそうになり、LOST IN TIMEいうロックバンドの何ていうのやろうか、哀調のロック(←勝手に命名)いうのかな、豪雨の中で叫んでいるような曲調にすごい共感を覚えるのですよ。

ほんまシラフのときは楽しくて仕方ないのに、酒が抜けそうな頃に、ガーっと叫び、泣きたくなるのですわ。

争い合う吝嗇家(つまりケチ)と浪費家を前にして、導者の詩人が女神「運命」(Dame Fortune)について言及するわけですよ。

全能の神が諸天に天使を配したのと同様にして、地上にも、運命の女神を置いた。

地上のすべての財を、彼女は、国から国へ、家から家へ、年が経巡るに従い止まず移し続けた。生者は「運命」の回し続ける車輪を留めることを決して許されない。

国々は彼女の意のままに興り、滅びた。誰も、彼女が次に誰を顧みるかを予測だにできない。

彼女が過ぎ去れば、物事も過ぎ去る。

運命に翻弄され互いのケチや浪費を罵り争う二者の群れ。これが第4層。

で、今や全部で9層ある地獄の第5層を詩人と歩く主人公が今見ているのは、腐臭漂う沼地で怒りに我を忘れ、すっ裸で、汚い体液にまみれてつかみ合う死者の魂たち。

彼らは汚い泥の中で殴り合い、蹴り合い、頭突きをし、互いの手足を引きちぎらんばかりに噛み付いている。

激怒と不機嫌に囚われた者たちのいるところがこの第5層だが、ここまでは放縦、つまり好き勝手に欲望のままに大食したり、肉欲や怒りに我を忘れ溺れた者たちが住む所。

続く第6層以降は、もっと酷い罪、つまり、暴力と偽りに生きた者たちが送られるところとなる。

俺がいっぱいいる・・
posted by よっしー at 11:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月08日

宗教の三契機

フロイト『精神分析入門』の最終章は、「世界観というものについて」。超合理主義者の彼にとっては、知識の源泉を直感のような観察以外のものに置く、哲学や宗教いうのは憎んで止まないもののようですが、この章において宗教についての考察もあり、非常に参考になりました。

宗教が人間に対して行おうと企てていることについて。3つあります。番号は俺。

「宗教は人間に、(1)世界の由来と発生を説明します。宗教は人間に、(2)諸行無常の人生における保護と最終的な幸福とを保証し、(3)人間の考えと行動とを、それが一切の権威をもって主張する掟によって指導します」

これら3つには、読み取りにくいですが、きちんとした連関があります。

まず、(1)世界の由来と発生を記述するに対して、神のような超越者が顕れます。そして、その超越者が、幼い子どもが親に対して期待するのと同じような、(2)保護と幸福、および、それらに至るための(3)掟を与えるということです。

もっとも、フロイトの述べている神が主に、旧約聖書の神を念頭に置かれて書かれていることには、注意が必要かもしれません。

我々日本人が、神社に奉られている神様にお願いするときには、望みをかなえるための掟への遵守(3)が要求されることは、ほとんどありません。
posted by よっしー at 09:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月02日

性愛が個体を種族に結びつける

フロイトが、単に生物学的な事実として述べた箇所ですが、非常に感銘を受けました。

飲食や苦痛の回避といった、自分の体を守ろうとする行動がありますが、それを越えて他人と繋がることを可能にするものは、

性愛しかない、

と断言してはります。人間種として、他の人間と繋がる原理は性愛しかないと言ってはるのです。

「実に性愛こそは、個体を越えて個体を種族に結び付ける生体の唯一の機能なのです。この機能を行使することは、個体の、性以外の営みとは違って、必ずしもつねに個体に利益をもたらすとは限りません。むしろ異常に高度な快感を与える代りにその生命をおびやかし、しばしばそれを失わせるような危険に個体をおとしいれることは紛れもない事実なのです」

この性愛の様々な表れ方を記述するのが、フロイトの理論の肝と言えるかも知れません。
posted by よっしー at 08:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月29日

よくわからなかったこと:夢は無意識の願望充足

(mixiより転載)

フロイト読んでます。

以前からずっと、テキストで、「夢は無意識の願望充足である」という一種のお題目を読んでも、さっぱりわからんな〜と思っていたのですが・・

あ〜〜っっ!
という発見です。

2点あります。


■その1:夢は「願望充足」である

夢は、眠りの浅い段階で起こるもの。その目的は、眠りを妨げる起床中の「刺激」を和らげ、深い眠りに入ることを助けることである。

この刺激は、起きている間に起こった出来事であることもあるし、起きている間に起こったことで活性化したいわゆる過去のトラウマのようなこともある。

この刺激を和らげるために行われるのが、「願望充足」という働きであり、非常にわかりやすい例だと、空腹時にごちそうを腹一杯食べる夢を見るといったことである。

フロイトによれば、夢は基本的にすべて、このような願望充足、すなわち、起床中の刺激を和らげるような体験を構成することを行う。

トラウマとなった場面が蘇るなどして、夢が眠りを妨げる場合も、基本的に夢がしようとしていることは同じ。だが、起きてしまうときは、その刺激が強すぎて、夢が願望充足的な体験を構成仕切れないという事情があると見なせる。


■その2:夢が充足しようとする願望は、起床中に意識している願望でなく、「無意識の」願望である。

つまり、意識的には嫌悪していることを、夢が見させようとしている場合がしばしばあるわけだ。


・・だからこそ、夢は無意識への王道と呼ばれる。夢を味わうことで、起きている間の「意識」の方が少しは配慮してあげなければならない、「無意識」の意向を知ることができる、というわけである。

全部、生のまま聞くわけには行かないであろうが、無意識が納得するようなやり方はあるかも知れないのである。
posted by よっしー at 01:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月26日

フロイトおもろい・・

いや〜びっくり。
氏の晩年の講義録『精神分析入門』を半分ほど読みましたが、めちゃくちゃおもろいです~

夢に登場する事物は、

1、起きているときの経験に由来するもの
2、父母、兄弟といった人間関係や性器等、分析者が神話や物語等を援用して読み解く必要のある、人間存在の深い層に属するもの

の二つがあるそうで、悪名高い「尖った物は男性器を表す」とか、「風景や家屋や箱は女性を指す」とか、「王と皇后は父母」を指すといった解釈は、上記の2に属するそうです。

かねてより大好きだったユングの「元型的イメージ」にほぼ対応するので、全く違和感なく読めました。

この2と、起きているときの経験に由来する1とを読み合わせて、夢が表そうとしている「願望」を読み解き意識化することで、その願望をコントロールできるようにするというのが、フロイトの精神分析における夢の利用法となります。

読んでいて、ユングがあれほどボロカスに言っていた、また、心理学のテキストで読むとあれほどこじつけ臭紛々で堪え難いほどに思えた理論が、誠実な治療活動から生まれてきたことがよく読みとれます。

ユングの理論とは、相違点よりは共通点の方がよく目に付いたくらいです。それどころか、きっちり言葉の意味を決めて、証拠を挙げて、原因・結果の系列を明らかにするというスタイルなので、ユングよりもはるかに読みやすかったくらい。

食わず嫌いって怖いなと思った(汗)
posted by よっしー at 08:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月24日

あたかもそれが「無い」ように見えるもの

それが、「無」意識です。

無意識、無意識と何度も耳にしていると、そういったものが実際存在していて、目にし、触れることができるもののように思えてしまうのが言葉の落とし穴で、その事情は「無意識」という言葉の場合も同様である。

本人は決してあるようには思っていないもの、それでいて、その人の行動や言葉を一貫して支配している何物かがあると、断片的な証拠から推定できるもの、それが無意識です。

そういった、自分の意識上の考えには昇っていない考えがあること、動機があること、そういった動機を産む全体的な状況があること、身体上の欠陥ないし癖といった事情があると想定すること。

一種の信仰かとも思いますが、手綱の付いていない馬の如くそういった動きを放置するのは、とうてい人間としての責任を全うした生き方ではない。

・・と、9割方は優しい父が、たまに取り付かれたように粗暴な振る舞いをしたり、言葉を吐くのを見るときよく思う。
posted by よっしー at 19:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月20日

愛する人を孤独にしない

俺がもっとも重要視していることは、「心を通わせること」だ。

このことに価値を置く限り、人間はどのような状況になっても、誰かに影響を与えることができるし、誰かから影響を受けることができる。そして、そのような関係のあり方に応じて、絶え間なく、一人一人のかけがえのない主観的世界、すなわち、コスモロジーが形成されてゆく。

で、この通わせることが苦手な人、そもそも拒否してかかっている人というのがいて、そのような人からは例え家族であっても迷わず逃げるというのが、俺の適応戦略であった。実際、相当傷付くことがあるので、ある一時期においてはそれが正しかったとさえ言える。

が、逃げちゃいけないと、昨日ふと思った。

どんな人と縁があるか、既に縁がある人にどのようなことが起こるかは全く予想が付かない。

だから、常にこちらから、相手の心に届く言葉を探す。働きかけを模索する。

愛する人を孤独にしないために。
posted by よっしー at 12:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月19日

無人島テスト

心理テストだそうですが、何がわかるのかは知りません。その質問は、

「あなたは無人島で一生過ごすことになりました。一つだけ好きなものを持って行くことができます。何を持って行きますか?」

というもの。

俺だと、キリスト教徒ではないけれど、聖書を持って行くと思います。なぜなら、雑然としていてよくわからないので、かなり長い間のヒマ潰しになりそうだから。

それでいて、現在の哲学、科学、社会制度、行動規範、文学、芸術の原動力にもなったものだから。

同じ意味では、例えば法華経のような大部の仏典を持って行っても良いが、仏教は、書物ではすべてがわからないというのが前提やし、明確な認識いうのを拒否してしまうところがある。

誤りが多くとも、明確な認識を擦り合わせて前進してゆける、明確な見当識(=ここはどこ、私は誰?)を担保できるというものが欲しい。

だから、聖書です。
posted by よっしー at 01:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月16日

治った・・(地獄の3分類)

(mixiより転載)

早っ。

なるほど、なるほどです。外向きにはどれだけウソを言えても、自分にだけはウソは付けないようです。

善行という天国への鍵を得るためには、地獄の光景によく目を凝らさなければならない。

今読んでいる本の冒頭の解説に、地獄とは何かという話があって、それはすなわち、大きくは次の3つに行き着くということが書いてありました。

悪さの「少ない」順に、

1、自制心の欠如
2、暴力
3、欺瞞

ちなみに、なぜ、3の欺瞞が一番悪いかというと、それは、人間に与えられた理性という尊い賜物を、偽るという歪んだ目的に使うことになるからだそうだ。

で、地獄の住人である自分の在り方によく目を凝らす。

せめて適応的な行動を取る際には、そのズレを意識することくらいはしておいた方が良さそうだ。

ここにおいて、「欺瞞」が一つ止む。

1の自制心を保ち、2の暴力を避けるために、最も悪質な3の欺瞞に陥るという惨めな生き物が、人間かも知れません・・

非常に恐ろしい。
posted by よっしー at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

軽ウツ?

(mixiより転載)

妙に気力が湧かないが、理由が全くわからない。長らくこういう症状は出なかったのだが。

こういった気分のときは、理由が錯綜し過ぎていたり、根深い葛藤で意欲が分断されていたりしているものだ。

とにかく心に触れる言葉や映像を探す。あまり目的を持って何かをせず、折に触れて自発的に起こる感情の動きを観察する。

そうしてゆくうちに、それらがふっと像を結ぶ。はず。

今、テレビで、アフリカ難民キャンブの極限状態の生活を見たとき、少し気持ちが軽くなった。

そのキャンブから養子に迎えられたニューヨークの家庭で、夕食のチキンを見て、

「俺だけ幸せになっていいのかな」

と呟くロペス氏を見て、また楽になった。

夕刊の連載で、病気を押して寅さん映画に出演していた渥美清の話を読んだときは、逆に、かなり気分が沈んだ。

が、やっぱり理由がわからない
posted by よっしー at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月02日

純理英訳読破

カントの『純粋理性批判』という本だが、1年くらいかかって、昨日やっと英訳も読破できた。全部で700ページあったが、外国語で読むしんどさを含めても、日本語版に比べるとかなり読みやすかった。以前日本語訳で読んだときは全体の半分くらいしか内容を理解していなかったことに気づいた。

ついでに英語力もついていると非常にうれしい。
posted by よっしー at 10:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月25日

ニッポン人脈記「絵本きらめく」

(mixiより転載)

朝日新聞夕刊の連載記事、「ニッポン人脈記」。今日からはしばらく、全国の様々な現場(医療、保育、福祉等)で読み聞かせの活動をしている人たちの活動を辿ってゆく内容だ。

字が読めるようになって以来、子供ができたり仕事で必要だったりといったよっぽどの事情がない限り、たいていの大人は本といえば一人で黙読ということになっていると思う。

しかし、例えば子供を前にして、共に時間を過ごすというもしかしたら消極的だったかも知れない動機から読み聞かせを始めた方々が、その「お話」の共有体験の素晴らしさに感激するわけです。

記事で紹介されていた小児科医の一人は、お母さんに抱かれた13人の赤ちゃんを前に読み聞かせをするとき、むずかっていた子供も含めてすべての赤ちゃんがいっせいにこちらに目を向け、静かになる瞬間について、「魔法みたいだ」と形容しています。

きっと、お話の展開の一つ一つに耳を澄ませ、目を輝かせる子供たちと過ごす一瞬一瞬についても、同様に奇跡か魔法のように思えていることだと思います。

人間は2つの世界に生きています。

1つは、リアリティの世界。すなわち、北京オリンピックが昨日終わったとか、日本の金メダルはいくつだったとか、今日の西日本は北から入った寒気の影響で涼しい朝だったとかいった、「事実」の世界、言葉で説明したり把握できる世界です。

もう1つは、アクチュアリティの世界。夢中で友人と話しいて、後から振り返ってみると楽しかったことだけは覚えているけど、何を話したかは詳しくは思い出せないときのような、あるいは音楽の合奏やライブなどで、その「場」に没入していて、その場にいる人たちと共通の感情体験をしているときのような状態です。

絵本の読み聞かせというのは、それがうまく行ったときには、この「アクチュアリティ」が働くのだと思います。

心理カウンセリングなどは、一対一で相談者と時間を決めて合う場に、治療的なアクチュアリティをもたらすような仕事であると思います。

このような感情体験は、言葉でそれそのものを表すことができない。

言葉で表せるのは、そのような体験が起こるまでに必要なこちら側の心構えや態度にはどのようなものがあるかという「入り口」の部分、そして、そのような体験を事後的に記述して分類するような部分、すなわち「出口」を通して振り返られた部分だけということになります。

ふと思い出しましたが、源氏物語のようなすぐれた小説などは、黙読するだけにせよ、読者をこの「アクチュアリティ」に引っ張り込む話の要素や舞台装置、文体等々の選択や配置が絶妙です。

お受験とか、競争に邁進して、点数や評価に繋がるような知識を詰め込むことだけをしていたり、他人を蹴落とすことだけを考えていると、このアクチュアリティの体験を案配したり共有したりする能力が絶望的に鈍ります。そして酷い孤独感を感じることになります。

大変ちぅいが必要です。
posted by よっしー at 19:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月22日

河合隼雄さんの人脈を辿る

2001年出版の、臨床心理学者河合隼雄さんの自伝を読んだ。

書名は『未来への記憶』。上下巻で2分冊の岩波新書である。

昨年夏に亡くなったが、俺はこの方を、ものすごく尊敬している。直接会ったことはないが、亡くなったときはほんまにショックで、それ以来なんとか、俺が河合先生から受け取ったものを読み直すなりまとめるなりしようとしてきた1年であった。

この自伝には、たくさんの人が出てくる。河合先生はもうこの世にいないわけだから、何とか先生が影響を受けたり、与えたりした方を知りたいと思ったので、本の記述を参考にリストアップしてみる。


1、高校教師、京大大学院生、天理大学講師時代。ロールシャッハテストに取り組んでいた頃(1952年〜)

(京都ロールシャッハ研究会)
・高橋雅春:京大文学部の心理を出て、少年鑑別所で心理テストをしていた。河合氏がロールシャッハテストを学ぶ。後に京都ロールシャッハ研究会をつくる。
・藤岡喜愛:元は植物学。のちに精神人類学の方向へ。河合氏が大学生の頃からロールシャッハに熱中していた。京都大学の人文科学研究所に所属。
・池田徹太郎:当時文学部の学生。河合氏の近所に住んでいて、ロールシャッハのことをしばしば話し合う。
・牧康夫:岩波新書『フロイトの方法』という本をまとめる。臨床的なことを理論的に考えていた方。京大人文科学研究所に所属。シェルドンの人格理論に興味。
・林脩三:精神科医で、鑑別所の所長や児童相談所の所長をしていた。河合氏が身近な人の自殺にショックを受けたとき、相談する。
・辻悟:当時阪大医学部の講師で大変活躍されていた。

(京都大学、教育相談。河合氏も当時参加)
・正木正:もともとは性格心理学。臨床的なことに関心を持つようになっていた。
・倉石精一:臨床的なことに関心。
・黒丸正四郎:臨床的なことに関心。後の神戸大学医学部教授。

(天理大学)
・長谷山八郎:天理大学短大で教育学を教える。実践的なことにものすごく関心があった方。

(京都大学人文科学研究所、当時シェルドンの人格理論が流行る)
・今西錦司
・鶴見俊輔
・桑原武夫
・藤原喜愛:前述
・牧康夫:前述

(その他)
・水島惠一:いま(2001年?)文教大学の学長。もとは法律専攻だが、非行少年を見ていて臨床心理学を志し、外国へ行く。
・片口安史:東京でロールシャッハに取り組む。精神衛生研究所に所属。
・カール・ロジャーズ:アメリカの心理学者で、非指示的カウンセリングの提唱者。京大で臨床心理学に興味を持った人たちがまず取り入れたのが、この人の考え方だった。
・ボーディン:ミシガン大学教授。京大で集中講義を行う。臨床心理学が体系付けられていることを河合氏が感じとる。
・高橋義孝:ドイツ文学者。日本教文社から、『ユング著作集』を出す。


2、カリフォルニア大学ロサンゼルス校<UCLA>留学時代(1959年〜)

(UCLAスタッフ)
・ブルノー・クロッパー:ドイツ系ユダヤ人。ロールシャッハの大家でUCLA教授。当時『投影法ジャーナル』という雑誌を主宰。ロールシャッハについては、「現象学的接近法」という立場。ユング派の重要な分析家でもある。
・シュピーゲルマン:ドイツ系ユダヤ人。クロッパーの弟子で、河合氏の教育分析を行う。クロッパーの紹介でユング研究所に行き、分析家の資格を取る。ユング研究所の第一回卒業生。
・シーハン:大学院のセミナーで投影法のテストを教える。講義は大変人気があった。

(UCLA学生)
・坂本百大:河合氏と同時期にUCLAに留学。哲学。
・目幸黙僊:後に日本人としては2人目のユング分析家になり、アメリカの大学教授になる。

(その他)
・ベック:ロールシャッハについてはクロッパーと共に、当時のアメリカで大変高く評価されていた。
・マックス・ツェーラー:ユダヤ系ドイツ人。河合氏がシュピーゲルマンの紹介で行ったユング派の集まりで知り合う。


3、スイス留学時代(1962年〜)
ちなみにユングは、河合先生が出発する前年に亡くなっていた。

(ユング研究所スタッフ)
・フランツ・リックリン:ユング研究所所長。河合氏のスーパーバイザーの一人(結局、全部で5人に頼む)。
・ジェームズ・ヒルマン:シュピーゲルマンの友達で、ユング研究所のディレクター・オブ・スタディーズ(教務主任のようなもの)。
・マイヤー:河合氏の教育分析を担当した。後に、スーパーバイザーも頼む。クロッパーとシュピーゲルマンが、彼に就くよう、河合氏に強く勧めた。
・フォン・フランツ:女性。昔話研究の大家。河合氏のスーパーバイザーの一人。
・バーバラ・ハナー:女性。イギリス人。フォン・フランツと仲良し。ユングに心酔。
・ドクター・フレー:女性。河合氏の最初のスーパーバイザー。分析家も担当(?)
・ヨランド・ヤコービ:女性。ハンガリーの貴族でユングに心酔。死に物狂いでユング派分析家となる。絵の解釈の専門家。河合氏のスーパーバイザーの一人。最後、ユング派資格認定試験をめぐって河合氏と大喧嘩した。怒ったユングに蹴飛ばされて2階から落ちたことがある。

(ユング研究所外部講師)
・レウ゛ィ・ストロース:社会人類学者
・ポール・ティリヒ:神学
・ハーバート・リード:イギリス美術史
・ポール・ラディン:人類学者で、河合氏は彼の言う、イニシエーション、トリック・スターの考え方に大変感激する。

(ユング研究所学生)
・李符永(イ・プヨン):韓国人てして最初のユング派分析家になる
・バサバダ:インド人。東洋人として初のユング派分析家となる。ちなみに河合氏は東洋人として2人目。
・樋口和彦:河合氏と同時期にユング研究所で学ぶ。

(その他)
・メダルト・ボス:ハイデッガー哲学に由来する「現存在分析」を主張。
・ルートウ゛ィッヒ・ビンスワンガー:上記の考えと名称を初めて持ち出し、「現象学的人間学」という言い方で提出。
・フィルツ:ビンスワンガーの病院で働いていたユング分析家。有能。
・三好郁男:河合氏に少し遅れて、メダルト・ボスの下で学んだ京大の精神科医。
・カール・ケレーニィ:ユングの友人。神話学者でマイヤーの友達。河合氏がユング派分析家の資格論文について相談する
・ロレンス・ヴァン・デル・ポスト:ユングの友人。マイヤーとも親しかった。日本で後に映画化された『戦場のメリークリスマス』の原作、"A Bar of shadow"の著者。河合氏が、日本文化の影についてマイヤーに話したとき勧められた。読んでいるとき、涙が出て仕方がなかったそうである。
・ロモーラ・ニジンスキー:ハンガリーの貴族で、ヨランド・ヤコービの友人。舞踊家ニジンスキーの奥さんで、河合氏が日本語教師を務める。
・ニジンスキー:舞踊家。後年、分裂病を発症。ビンスワンガーの病院に入院する。
・オイゲン・ブロイラー:ニジンスキーを初めに診察。チューリッヒ大学教授でユングと一緒に仕事をしたことがある。無名だった頃のフロイトを最初に擁護し、ユングを彼の元に送る。「精神分裂病」という名称を初めて提唱。
・コーラ:チューリッヒ大学の神学の教授。チューリッヒに「出会いの家」を作り、いろんな国の学生を泊まらせて勉強させていた。日本人や日本の宗教にも興味。同志社大学でもしばしば教える。
・内田伊佐夫:河合氏の留学の終わり頃、「出会いの家」で知り合う。スイス人の奥さんがいて、その人が河合氏の、『昔話と日本人の心』『明恵 夢を生きる』をドイツ語に訳す。『紫マンダラ』の訳にも取り組んでいる。
・ドラ・カルフ:箱庭療法の創始者。大金持ちの奥さんで、ユングと別荘が近かった。ユングに勧められてサイコセラピストになる。もとピアニスト志望で音楽家に知人が多い。鈴木大拙と親交あり。
posted by よっしー at 03:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月14日

「全体」を把握するのは感情の機能である

目的因とは何か

「ひと」

という言葉を見る。

そこに、

「ひ」と「と」

という二つの音素があるが、「ひ」も「と」もそれぞれ単独では、我々が「ひと」という言葉の並びで想起する「人間」という意味内容は何一つ含んでいない。

「ひと」という言葉はそれだけで一つの全体である。

また、分析して把握された人間の臓物は、それだけを見ると、グロテスクな物体に過ぎない。それにも関わらず、我々が通常意識するのはあくまで、それらが統合され、飲み、食べ、排泄し、生殖する、人体という「全体」であり、その構成要素として臓物は、連関して、例えばこの人、あの人の中で、「全体」として機能している。

このような全体を識別したり感じとったりできる主観的なイメージが我々には用意されているが、この「全体」を指向して「ひ」や「と」のようなバラバラの部分を意味のある単位に纏めあげる目標となるイメージのこと、あるいはそのイメージに対応する(と想定される)実在のこと、これを目的因という。

哲学の歴史はカントに終わりカントに始まると称せられることになった記念碑とも言える、彼の著作に、

1、純粋理性批判
2、実践理性批判
3、判断力批判

という三部の批判書があるが、これらは順に、人間の、

1、知(客観的な知識)
2、意(意志)
3、情(感情)

を扱っている。

上記の目的因を感知できる人間の能力については、3の判断力批判、すなわち、感情についての考察において扱われているのは驚くべきことだと思う。

我々が関知する「全体」は、「ひと」のような単語の意味内容だけではない。言葉なら、文という全体だったり、段落という全体だったり、書いた著者の意図という全体でもある。

それどころか日本語という全体でさえある。

大好きな人を目の前にしているとき感知している全体は、それまでにその人と過ごしたすべての時間であったり、今のあなたとのしっくり感であったり、次に語る言葉であったり、当面話していたことであったり、極大から極小まで、闇夜を一瞬で切り裂く雷光のように、パッと一気に浮かび上がっているものであり、特定のあれが、これが、全体として浮かんでいる、というような知的な把握ができないものである。

これらの全体は、感情で把握される。感情が、この「一瞬」に続く状態を、言葉を、表情を、立ち居振る舞いを、喜びを、悲しみを導くのである。

「全体」は、知的に把握することができない。すなわち、定義ができない。

今、この一瞬に入り込み、状況に没入しているうちに知らずに踏まえられ、感じ取られているものなのだ。

「全体」は感知される。すなわち、「全体」を把握するのは感情の機能なのだ。

物欲に溺れたり、地位・名誉を渇望することが愚かなのは、それらが着々と蓄積されているという知的な仮象に欺かれて、この決して知的に把握されることのない、「一瞬」という「全体」の質の低下が忘却されてしまうことにある。
posted by よっしー at 11:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月10日

体育会系になれぬ者

(独り言です・・)

関係性を生み出す駆動力の強さは、エネルギーの強さに比例するのではない。

関係性のあるところ、それを産む駆動力の勢いが強いときはその強さに対応した、弱いときにはその弱さに対応した、それぞれに強い力を持ったシステム内部の動きがある。

つまり、駆動力は常在するのだから、安心してシステムに内在する恒常性維持の仕組みに期待してよいのだ。

特別な意図的努力が必要なのではない。内部で駆動力に応じて動きだす物やエネルギーのやり取りを邪魔しさえしなければ良いのだ。

ときに、言語とは、この駆動力の勢いの弱さに対する補償であるような気がする。

なぜ理屈にこだわるのか、知り、割り切り、定型的な手順に落とし込もうとするのか。

それは、そうする方が圧倒的にエネルギーの節約になるからである。

力技が及ばぬから、簡略化しようという方向に動き出す。

体育会系や芸術系(?)になれぬ者が、文科系になったり理科系になるのではなかろうか?
posted by よっしー at 18:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月07日

地球というシステム、人間というシステム

先週書いた「表現」の話の続き。

人間は表現によって、関係をつくる。関係が機能しはじめたとき、「心が自律的に動く」体験をすることになる、というような話を前回書いた。

で、関係といえば、という話なのだが、哲学や宗教の分野では、「関係性」あるいは「関係規定性」というのがもっとも重要な術語として、あるいはものの見方としてあるのではないかと思う。

俺なりにこの概念を解説すると、例えば言語における関係性を考えてみる。すると、言語におけるどの要素(アルファベットのような文字、単語、文、文法的な要素・・)をとってみても、個々の要素の意味や機能は「全体」との関係によって決定されている、というような話である。

宗教では、仏教の根本的な教義の一つに「縁起」というものがあるが、これは万物が関係性のもとに、仮に我々の前に姿を現したものとして捉える考え方である。

すべてのものが、いちいち意識では把握できないくらいに深く絡み合い、連関しており、そのような連関が、例えば下駄の鼻緒が切れたとき、身内の誰かに不幸が起こるというような、原因・結果の系列において論じたらアホかと思われるような、それでいて深い意味的連関を持った、同時発生的にパッと起こるというような偶然において我々の前に姿を現すことがある。この連関を「真理」であると断言しているのが仏教やと思いますが、ちなみに俺はまだそこまでわかったとは思えていません。

さて、

この関係性について、松井孝典さんという、複雑理工学、地球惑星科学専攻の自然科学者がおもしろいことを言ってます、関係性というのは定義できないという話を言っています、という話を先日受けた講義で心理の先生が言ってはって、気になったので、岩波新書の本で松井孝典さんの主張を読んでみた。

ちなみに心理の話では、関係性については云々できないから、私は関係を取り上げるのです、というようなニュアンスで話が進んでいた。

松井氏の著書によると、「関係性」というのは、「システム」という全体を構成する要素間の相互作用のこと。そして、関係性の起源ついて、さらに次のように述べています。

松井孝典『宇宙人としての生き方』(岩波新書)より。

「では、その関係性はどうやって生み出されるのか。その内部、あるいは外部に駆動力があり、それによって物・エネルギーが動くことで関係性が生まれます。例えば機械では、いくつかの歯車が組み合わさって力が伝わり、互いの関係性が生まれ、機械として作動します。地球の場合には、大気とか海といった構成要素があり、例えば太陽からのエネルギーで暖められた海から水が蒸発し、その水蒸気が大気中で再び凝縮し、雨になって海に降るといった、物の出入りが互いの関係性になっています」

地球をシステムとして捉える場合、松井氏が「駆動力」として特定しているのは、太陽のエネルギーと、地球の内部から外部に向かってのエネルギーの流れの二つ(地球は中心ほど熱い)。地球システムの構成要素として特定するのは、一番外側から、磁気圏、プラズマ圏、大気圏、人間圏、生物圏、大陸地殻、海洋、海洋地殻、マントル、コア、などがありますが、システムを考察する際の構成要素は、「性質の異なる複数の構成要素で全体が記述できれば何でもよいわけですが」とあります。

この本には、地球が一つのシステムとして機能している例がたくさん出てきて、門外漢の自分にもすごく興味深かったです。そして、このような地球システムにおける構成要素の一つとして人間を考えようというのがこの本の話の趣旨でしたが、今俺が考えているのは、ここまで壮大な話ではありません。

例えば家族を、会社を、学校を、あるいは友人関係を一つのシステムとして捉えた場合、そのシステムがうまく機能するのは、あるいは全くうまく機能しない場合とはどういうときなのか、という話です。

あるいは、ある特定のシステムの要素として自分を捉えた場合、自分はこれからどうすべきかということです。

こういったことを考えるのに、自然科学のメタファーで人間を捉えるのも、非常に有益に思えます。

人間関係を機能させる「駆動力」って何なのだろう、とか。

人間関係の外に太陽の熱エネルギーがあり、人間関係の内に、中心部から顕在化するのを待っている熱エネルギーがある。このように言うのはいわゆる比喩ですが、何か重大な真理を含んでいるように思えませんか?

・・というようなことを、今なおごちゃごちゃと考えています。
posted by よっしー at 11:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月29日

人間の表現欲求は根本的なものだ、っちゅう話

(mixiより転載)

表現欲とは人間にとって根本的・・すなわち、食欲や性欲と同じくらい、生きるに際して本質的なものです、とまで言われればどう思うやろうか?

そんなあほな、いくら表現欲が強いものだといっても、まさか食欲・性欲等と同列とまで言うことはできまい、と思うのが通常やと思うし、俺もそう思ってきた。

が、妄想や幻覚といった症状をもっぱらとする統合失調症という重い精神病があるけど、それを病んだ人の症状の一番中心にあるのは「自閉」、つまり、他人に対して何かを伝えようとする表現欲求や能力がほぼ絶えて無くなってしまった状態であるのだそうだ。

妄想や幻覚というのはその意味で、自閉に伴って現れた副次的な症状に過ぎないとのこと。

表現が無くなってしまうというのはすなわち、人間として生きるということからは遠く離れた事態であるわけだ。

そして、講義をしてくださった先生(京大院心理で准教授をしてはる)が描画療法のようなカウンセリング技法を行う際、もっとも留意しているのは、いかにこのやり取りを守り促進する場を作るか、相手の表現を保証するために必要なこちら側の心構えや素養として大事なことは何か、といったことに尽きるようだった。

言葉のやり取りや気持ちのやり取りが極めて困難な、まるで禅問答のような患者さんとの会話の様子を伺っていると、この自閉という状態がよくわかる気がした。

さて、

このような表現が、同じ場を共有する2者の間で機能し始めたとき、「心が自律的に(つまり勝手に)動く」のだと先生はおっしゃっていたが、相談に来られた方にとってこのような状態を続けることは、心を手術するようなものであり、あまり気持ちの良いものではないのだそうだ。

それどころか、健康な人にカウンセリングをしたら確実に神経性になります、とのこと。

とはいえ、下手をすれば神経性になるような表現活動を求めて止まないのが人間だとすれば、人間いうのは何とも業が深いというか、病んだ存在ですよね。

・・と、昨日、今日と、このような話を、放送大学のスクーリング授業で聞いてきた。

先日週刊現代で読んだ秋葉原事件の犯人の家庭状況を見ると、子どもにこの「表現」を許さないという点では、つまり生活の細部にわたって、偏執的とも思えるほど徹底的にしつけと称したコントロールを親が行っているという点では、一貫しているなと思います。
posted by よっしー at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月18日

週刊現代の良い記事(秋葉原事件容疑者の弟の手記)

(mixiより転載)

容疑者の弟の手記が載っていて、さっきたまたまコンビニで読んだが、これが素晴らしい内容だった。

書いた本人は気づかなかったと思うが、なぜこういった事件が起こるのかということについて、いろいろと考えさせられる示唆に満ちていた。

弟さん自身は自らの家庭に問題があったことを認めつつも、事件を起こした兄のことを激しく非難しており、本人の主観的な態度としてはただただ兄の自己責任を問うものである。

が、幼い頃の家庭の状況、母親の厳し過ぎるというか、俺から見れば子どもへの人格攻撃をも含んだ過度なしつけの状況が垣間見えて、母が早くに亡くなって超放任主義で育った俺からすると信じられないような環境だ。学校の成績とか、作文の内容とか、読む本、交友関係、あらゆる部分に、世間一般の「良い」とされる価値観に適合するよう執拗にコントロールが及んでいる様が感じられて、俺なら3日と耐えられない内容だ。

人間をナメるなと怒りが込み上げてきた。

この弟さん自身も、高校を3ヶ月で中退するほどの苦しいときがあったようだが、当たり前だと思っていた自分のうちの家庭が、友人のものとずいぶん違うとびっくりしたという記述をしている。

ただ、彼は20歳のときに就職した会社が肌に合っていたようで、早くに家を出て、自分の家庭を客観的に見れるようになったそうで、母親に対して怒る気持ちも今では全くないとのこと。兄の苦境は、いつまでも憎しみを抱え続けて外の世界に活路を見いだせなかった兄が悪いと思っているようだ。

しつけについては母親から直接あやまってもらったとのこと。母親自身もやりすぎたという感があったようだ。

もちろんその母親を責めることが、同じような状況にある人の苦境を救うことには繋がらないということは強調しておく必要があると思う。

この人も、「世間体」というわけのわからないものにひときわ敏感だったという点で、被害者と言えるからだ。ここまで子どもに対してコントロールを及ぼそうという衝動に囚われてしまうほど、不安の強い人だったのだろう。

大切なのは安心感だと思う。

恐怖をあおるような記事はいらない。どこに、どのような危険があるかをはっきりさせて、そのような危険を避けるためにどのような施策が取れるかということが大事だと思う。

その点で、家庭を内部から見ていた弟さんの手記というのは、俺にとってものすごく参考になった。

「良い」子って本人からしたら悲惨ですよ。この手記を見るまでほとんどピンと来なかったことですが。
posted by よっしー at 08:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月14日

KY(空気読めない)でも許される状況

(mixiより転載)

昨日、人間関係における防御とは? というテーマで以下のようなことをぶつぶつ考えた。

**********

防御によって避けたいことは何か。それは「不意に」傷つくことを言われたり、されたりすること。

パニックに陥ってしまえば、もうどのような手も打てなくなってしまうからである。

というわけで、「不意に」を避ける。これが目的。

では、その方策は?

あらゆる最悪の結果を予測すること。

一番言われたり、されたりして嫌なこと、キツイことを一つ一つ想像する。

そして、それらを避けるには、あるいはできるだけダメージを小さくするにはどうしたら良いかを考える。

相手を観察し、自己防衛という観点から、話す言葉の一つ一つ、対応の一つ一つを検討し、選択してゆく。

つまり、予測して、想定するわけで、こちらがどう防ぐかという事後対応に加えて、防ぎやすいようにどう布石を打つかという事前対応をも一つの「型」として体に染み込ませることが重要なのぢゃ。

(なぜか「ぢゃ」)

********

さて、

「何に傷付くか」いうのは、人それぞれやろうけど、さらに考えてみてショックやったことがある。

俺があかんのは、「とにかく違〜う」「理由なんてどうでもええんじゃ〜」「とにかくお前は間違えとる」「わし(ら)の言うこと聞け〜」みたいな雰囲気を感じ取ることであって、ただそれだけでボロボロになります。

職人修業なんかしたら死ぬタチです。

空気読めとか、たとえ俺に向けられた言葉でなくとも、肺腑をえぐられるような気がします。

理由のわからん「気分」で、一挙手一投足捕まえてオヤジにバカバカ言われて萎縮しまくっていたことがありますから、もはや「空気」というものに対して信頼感なんて持っていません。

ですが、「空気を遵守せよ」の雰囲気からは、結局どこへ行っても逃れられないわけで、結局俺の行くところはどこにもなく、俺の苦境はそもそも防御以前の問題なのです。

集団内では黙って縮こまっとくしかないんか。嫌やな・・。

昨晩、明石家さんまの番組を見ていたら、おバカと言われても平気なスザンヌはタフやな〜と思い、見ていて、我が身の情けなさに涙が出そうになった。

まあ・・ふて寝しよ、と思って寝たのであったが、深夜、また、珍しくはっきりした夢を見た。

あ、そうか・・空気を読まなくても許される場面があるじゃないか!!

それは、

「危険な状況」や「非常事態」であって、そういった状況において、空気なんて全く気にせず、率先して大声で、近くにいる人に指示を出したり助けを求めたりして、困った状況に対応している自分がいた。

無事対処が済んだ後、ワーッと拍手を受けたところで夢が終わった。

まあ、逆に言えば、

平和なときには居場所がないのが俺なのやろうけど、何かすごく救われたような気がした。

夢の俺は40歳になっていた。

もしかしたらこれは願望充足夢に過ぎないかもしれないけど、夢はしばしば新しい方針を示してくれたり、有益なアドバイスをくれる。

賭けてみるか・・
posted by よっしー at 09:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月19日

追加登録完了(心理)

今日は所属だけしている放送大学の特別講義の追加登録の日。目当ての先生の科目に空席は二つ。今から京都駅前の学習センターに行くか、・・行こう。

抽選に当たったら即申込みせなあかんので、姉さんに金借りなあかんけど(泣)

大学をドロップアウトした自分が最近とみに思うのは、きちんとしたスタッフや体制の整っているところで勉強せなあかんなということだ。趣味で個人的に好きなことをやっている分ではやはり、緊張感が欠けるし、甘えも出てくる。

京大院の臨床教育学専攻科で准教授をされている方だが、日本人の心の健康や、カウンセリング等の実践を行う心理職の行く末に関して、自分たちが貢献してゆくのだ、何とかしなければと思ってはる意気込みなどが、毎度講義を聴く度にひしひしと伝わってくる。

学費がないし、結構良い歳だが、こういうところに身を置いて勉強したいなと、最近とみに思う。

**********

抽選に当たった!

授業料5500円の出費は痛いが、痛いけどうれしい
(´Д`)
posted by よっしー at 07:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする