2008年07月28日

試験考 - ブームなんて終わってくれ

(後で読み返すと、自分でも突っ込みたいことがいっぱいありますが)

某心理士になるために入るのが必要な、指定大学院について考えている。

試験・・

いったい何のためにあるんだろう?

試験を通して入った集団において、きちんと仕事ができるか適性を測るためなのか?

うそだ。

競争のためだよ。例えば定員30人なのに、そこに行きたいという者が100人いる。そのうち70人を門前払いするためにあるのだ。

例えば、(1)適性があるとされた者を50人入れて、後でやはり向いていないものを辞めさせるとか、(2)逆に適性のある者が5人しかいなかったから5人しか入れないとか、そういったやり方があっても良いと思うが、必ずしもそのようにはなっていない。

で、志願者が多かろうが少なかろうが、約30人の定員に合格者を絞るというのは、より大きく社会的に見ると、間違っているとは言い切れない。

それが例えば医者や弁護士といった仕事なら、ニーズに見合わない人数だけ増やしても、現在の運送業のような過当競争を招いて社会が大混乱するだろう。

価格競争で採算が取れなくなかった業者が、生き残りを図って、その業界の信頼を裏切るような飛んでもない不正を行って利益を追求し、大きな災厄をもたらすことも有り得る。

そのような事態を未然に防ぎ、社会への仕事供給の調整弁となる役割も、試験にはあるだろう。

また、もっと単純に、学校だと、受け入れる側の体制が整わないからといった事情もある。

その場合、優れた環境で勉強するために、志願者は他の志願者と競争するが、このときの志願者の立場は社会への仕事の供給者ではなく(教育というサービスに対する)需要者なわけだ。

そして、志願者に競争させて学生を採る側は、教育の供給者である。してみれば、至るところに学歴競争に似た不毛な競争が起こるのは、教育の供給不足によるのだ!

んなアホな・・俺は、違うやろ、と言いたい気分だが、なんでこう思うかはよくわからない。

だが、学歴競争には、「ブランド」すなわち見栄や世間体の良さを求めての競争といった側面がかなりあるように思うのだ。そのために、学校の本質が見失なわれたり、本当に入らなければならない人が入れないといった事態が起こるのはバカバカしいことだと思う。

・・と思うのは、心理学自体が混乱している学問だから、指定大学院であればどこでも良いというわけには行かないからだ。ほんまに教わりたい、学問的には異端であり、実際取り扱いに注意を要する、主観性や関係性に関わることをきちんとしているところに行きたい。

が、そうなると行くところがかなり限られるし競争も激しそうだ。心理学ブームなんて終わってしまえばいいのに。

ブームであろうがなかろうが、必要なものは必要だし、要らんもんは要らんのだ。

ともあれ、適性試験であると割り切れるなら、目標もはっきりするので、むちゃくちゃ燃えることができるのですが。統計処理が必要なら、それを必要な限りでめっちゃ頑張るし、他の実験系の学者さんとうまくやっていかなあかんから一応知っといてくれいうことがあるなら、やはりその目的に必要な限りでがんばります。いろんな関係者と連携を取ることが大事ですからということなら、企業への就職活動のように、電話の掛け方や服装、話し方といったマナー的なことにも本気で取り組みます。

競争・・となると全く燃えないです。大事なのは競争でなく、人よりできようができまいが、全体としてうまく機能することだと思います。
posted by よっしー at 02:34| Comment(8) | TrackBack(0) | 世の中・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月23日

決まり事は何のためにあるのか

決まり事とは。

小さいときからずっと、それを知らない人を排除して、わかっている人たちだけで物事を丸く収めるためにあるんやと思っていました。

いろいろ知りたいこともあるけど・・親には聞けない。俺の無知にイラつく親の顔が目に浮かびますわ。

ぶっつり。

しかし、つい最近、マナーや儀礼のような決まり事とは、それを通して気持ちを通わせるための手段だと思えるようになった。

わからないときは、どうすれば良いか話を聞く。守れない事情があるときは、どのような代替手段があるか、落とし所を見つける。そして、代わりに取ったその手段が正しかったかどうかをまた確認してみる。

それらのプロセスも含めてすべて、決まり事とはお付き合いの手段、あるいは、その働く所に初めて人間関係という「内容」が生まれる「形式」なのだと思う。

ところが、例えば葬式のような儀礼だと、それがあるときだけ顔を合わせるような付き合いの希薄な親戚同士で、急にそのような「形式」をこなす無理が出て来る。

少なくともうちはそうだ。

激しい世相の変化を経て現在に至っている今の世代である。

もと、祖父母がいた土地から遠く離れて、先人である祖父母以前の先祖からは想像もつかないような会社勤めをして、忙しく働いている。

子どもの誕生や成長、不意の病、両親の老い、そして死。あるいは自らのルーツ、自分たちを取り巻く村社会、国家といった大きな制度。

そういったものを対象化する仕組みだけが、遠い、少なくとも100年以上前のシステムのままで石化している。つまり、業者の手に委ねられて放置されている。

批判すべきは業者ではない。それらから目を背けて業者に丸投げし、お茶を濁している自分が悪い。
posted by よっしー at 01:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 世の中・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月15日

「トリアージ」という現実

昨日、NHKで、JR福知山線脱線事故における「トリアージ」を扱った番組があった。大規模災害において、救急車両に搬送するけが人に優先順位をつけざるをえないような状況で、けが人の怪我の程度を色付きのタグで判別できるようにするものである。分類は全部で4つあり、ウィキペディアによると、搬送の緊急度順に、

赤:生命に関わる重篤な状態で一刻も早い処置が必要で救命の可能性があるもの
黄:今すぐ生命に関わる重篤な状態ではないが、早期に処置が必要なもの
緑:救急での搬送の必要がない軽症

そして、ショックだったが、もっとも緊急度が低い、つまり救命措置が行われない(もしくは最後に行われることになる)ものとして、

黒:死亡、もしくは救命に現況以上の救命資機材・人員を必要とし救命不可能なもの

という分類が、当然ではあるけれど存在するということだ。

JRの事故では、運転手も含む100人強の方が亡くなり、500人を優に超えるけが人が出た。このような状況で、このトリアージのタグを記入し優先度を決める作業に専従していた看護師や医師の方の証言は、大変に重かった。

黒(救命不可能)のタグをまだ息のあるお年寄りに付けた看護師の方が、その方の携帯に不在着信が十件以上も入っているのを目にして、心配している家族か知り合いが電話しているのだと思って何とも辛かったことを言ってはった。現場にいた医師の方の一人は、タグを付ける際には感情は捨てる、でないとこちらが保たないと言ってはった。誰がその「感情を捨てる」と言った医師を責められようか。

赤と黄のタグの判断違いで、つまり、実際は緊急度が高いのに低いと判断したために救命が遅れて人が死ぬこともある。一つの現場から何百人もの患者を搬送せねばならないという混乱した状況にあって、このような判断を任せられることとなる医師や看護師の方の重圧はいかばかりだろう。

そして、そのような混乱した状況であるからこそ、ミスは当然ありうるわけだ。また、事故という性質上、ミスとまでは言えないまでも、緊急性が目に付きにくい怪我などもある。

一方、その判断が間違っていたのではないかとの疑いを持って釈然としない思いでいる家族の方ももちろんいるわけである。

普通に日常を過ごしていれば、我々は突然に事故等の当事者になってしまうわけである。そして、例えばこのようなトリアージで優先順位を付けられてしまう現実があることにいやが応にも直面してしまう。

いや、そもそも、人間が世の中で生きるということが、トリアージでタグ付けされるのと同様の側面を持っているのかもしれない。

不当な扱いを受けたからといって、恨まず、憎まず、世の中が全体としてうまく回っていくために、専門家の判断や経験者の判断を尊重し、それらが少しでも全体としてうまく機能できるように、といったことを考えていくことも大事だなと思った。

自戒も込めてだが、今の世の中全体が、専門家や経験者の判断を軽く扱っているところはないだろうか? その判断をワイドショーでよく見るような、単純な感傷でやすやすと批判したり非難してはいないだろうか?

現場でたまたま廃棄されずに残った救命不可能を示す黒のタグには、すべて、トリアージを行った者の名前も、された者の簡単な状態さえも記入されていなかった。訴訟やマスコミの批判などを恐れたという側面もあるのかもしれない。

そして、何も書かれていない黒の付票を見て、遺族は、うちの子はこんなに簡単に救急に従事する人に見捨てられたと思って不信感を募らせる。

批判や非難が、このような溝を作ってしまう。

評論家は要らない。要るのは共に闘う人だ、という言葉を最近どこかで目にしたが、大いに共感する次第である。
posted by よっしー at 09:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 世の中・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月28日

皆、隣の奴は一億玉砕すると思っていた

『バカの壁』で超有名な養老猛司さんのことば。バカの〜、は、実はまだ一度も読んだことがないが、養老さんの本は昔から結構好きだ。1937年の戦前生まれで、終戦のとき8歳だから、ついこの前まで威勢の良かった教師が、急に民主主義民主主義言い出したのを知っている世代ですね。

俺みたいに一度正規のコースを外れた立場からすると、原理・原則を一つも大切にしない、すなわち、自分の目の届かない範囲ではどんだけ適当にやろうが、悪行の限りを尽くそうが知ったことではないというさもしい通念は痛いほど思い知るわけです。

とりたててやりたいこともないし、外にも出たくない、そんな自分に、こちら側まで降りてきて、世の中について教えてくれようとしたのは、9割方が、欧米人著者の本だった。

日本人のそういった、全般的な傾向について。

「その構造が一番厄介なんです。第二次大戦で一億玉砕を経験した人は、分かっているんですけどね。皆、隣の奴は一億玉砕すると思っていたわけです。そして、8月15日になったら、誰もそんなこと思っていなかったと分かった」

裏でグチャグチャ、ほんまは違うんやけどさぁ、と、身近なものだけで甘い汁を吸おうとする。

俺はどうしても、何か温かいものの外にいる者として自分を捉えてしまうので、こういうやり方というのは大嫌いだ。
posted by よっしー at 19:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 世の中・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月24日

そとは火の海

昔聞いた、とある歌の一節ですが、しばしばこの歌が頭に響きます。

そとは火の海
僕のこの声も
同じように 燃えていた

少なくとも戦時中、多くの日本人が、空襲による「火の海」を経験したはずで、大阪の、今でいう蒲生の辺りに住んでいたといううちのばあさまも(じいさんは兵隊に取られていた)、危険を感じ、幼かった父や叔父を連れて親戚のいる岡山に疎開したと聞きました。

世界史の文脈でみると、アメリカを大戦に参戦させ、日独伊の枢軸国の優勢を覆す結果となった、戦略的にも愚行といえた真珠湾攻撃の効果も陰り、太平洋の海域におけるアメリカの優位が決定的になった頃にあたるのでしょうか?

アメリカが態勢を建て直す間に占領した東南アジアの島々では、補給路を断たれ、圧倒的に多くの兵士が、戦闘によってではなく、飢えで命を落としたと聞きます。

日本やドイツは、何を目指していたのでしょうか? 国民の利益、存続をゴリ押しするための腕力を正当化できるほどの熱狂を生む国民のストレスとは、いかほどだったのでしょう?

うちは父方も母方も、じいさんばあさんの頃は割と裕福だったそうで、そのせいもあるのか、がっついたところのほとんどない祖父母を見ていても全くピンと来ません。

むしろ、火の海に生きたと感じられるのは、父や叔父の方なのですが。

あれだけ人をバカバカ言う。それが当然というなかで働いて来たのだろうか。もしそうだとすれば、世の中というのは何と恐ろしいところなのだろう。
posted by よっしー at 08:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 世の中・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月07日

NOVA事業譲渡先決定

事業譲渡先が決まりました。といっても、670あった教室のうち、当面引き継がれて早急に授業を再開するのはわずか30(のちに200まで拡大する予定だそうですが)。しかも、一受講生にとって最大の関心事である、前払いの受講料の債務については引き継がない方針だそうで、これはつまり、ぶっちゃけ我々のNOVAのチケットが紙切れになってしまうことを示します。

ただ、保有しているNOVAのチケット分の授業は1/4の月謝を追加で払うことで受けることができるようにするとのことですから、「紙切れ」と言うのは言い過ぎかもしれません。EC英会話という同種事業を傘下に置く、今回の譲渡先のジー・コミュニケーション社の07年5月期の連結売上高が約460億円、その企業が、600億円以上にのぼるというNOVA受講生の前払い債務をすべて引き受けて、ほぼ全く見返りなしに「授業」という債務を履行することを期待するのはそもそも虫が良すぎる話かもしれません。

「早急に」引き受け先を探さないといけないという今回の状況下で、意思決定に時間のかかる大手企業の支援を仰ぐというのは、もともと無理な話だったということですし。

他の英会話教室でも、NOVAのポイントに応じて優遇措置を講じてくれる学校があるそうです。俺みたいにローン会社を通して月賦で払っている生徒は、割賦販売法の規定により今後の支払いを拒否すれば済むだけですが、前払い金を信販会社を通じて分割で払っているわけではなく、一括現金で払ってしまった方は、全体の8割に達するわけで、つまり、大部分の元NOVAの受講生は泣くことになりそうです。

会社が潰れるってこういうことなんですね。

今回はいい社会勉強になりましたわ。合掌・・
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2007年10月30日

NOVAの教室前

nova.jpg nova2.jpg
昨日駅前に用事があったので、ふと思い立ってNOVAの教室を見に行く。

受講生等に宛てた、教室一時閉鎖の貼り紙と共に、講師の方が個人で貼られたプライベートレッスンのお知らせも3枚掲示されていた。

1時間2500円とのこと。たぶん業界で最も安かったと思われるNOVAで、1対1のレッスンを行うには、チケットを大量購入していた人でも3600円/40分。割引がそれほどでなかった俺の場合だと確か少なくとも6000円以上になっていたはずだ。

駅前の教室で、講師を手配するスタッフがいて、テキストや各種講座が用意されて、といった組織維持のためのコストを痛感させられました。

でも、やってみてわかったけど、英会話はたとえ2、3人の少人数でも、マンツーマンに比べればかなり効果が落ちるし、間にテキストがあるということが必ずしも役に立つわけではない。

NOVAのテキストは、もともとはアメリカで作られた、移民等の外国人のためのテキストを改変したものであり、個人的には生活に必要な英語を網羅した質の良いものだと思う。CDもついていたし、市販されているNHKの講座に比べても、質・分量とも申し分なかったと思う。解説がついてなく、かなり高いのが難点だったが。

しかし、あのテキストは自習用として自分で調べながら使うのは良いと思ったが、間にあるとレッスンの進行がぎこちなくなる。

2500円で一人の講師を、1時間拘束できる。

この現実をみると、英会話学校はそもそも必要がないのではないかと思わざるを得ない・・

Xデーは近いかも知れない。

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2007年10月26日

NOVAが会社更生手続を申請

NOVAが会社更生手続の申請を行ったとのこと。

認められれば、管財人の主導のもとで経営の立て直しを行うという建前だが、支援企業が見つからなければ破産手続きに入る見込みらしい。

一受講生として気になるのは、前払いとして払ったお金はどうなるの、ということだ。

NOVAは英会話学校としては、業界シェア50パーセントの破格の規模であるわけだから、過去の英会話学校の倒産時におけるように、他の英会話学校の授業を振替で受けることができるようにするというのは、なかなか難しいんじゃないかな、とも思える。

受講料については、記事によると、(以下引用)

>クレジット契約では、企業の倒産などでサービスの提供が受けられなくなった場合は、信販会社に申し出れば、未消化分の支払いを止めることができる。レッスンがまったく行われなくなれば、受講料を支払う必要はなくなる。

とのこと。つまり、信販会社を通して分割払いで受講料を払っている人は、その信販会社への申し出によって、未消化分の支払いを止めることができるらしい。知らなかった。

俺、まだ未消化分の授業が20万円分ほどある。

ちなみに現金で既に受講料を全額支払ってしまった人については、

>現金払いでは、裁判所が選任した更生管財人が債務整理にあたるが、未払いとなっている従業員の給料や税金、社会保険料などの支払いが優先されるため、戻ってこない可能性が高い。

とのこと。あべし。

ついこの間まで、大々的にCMを行っていた企業なのに、何が起こるかはほんま想像できんものだ。でも、株価などをみると、NOVA衰退の予兆は、今年初めに経産省の指導を受けて解約騒ぎが起こるよりもはるかにずっと前から(少なくとも数年前から)あったわけで、大手だからとか、有名だからというのは当てにならんものだなと痛感しましたわ..( _ _)n
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2007年07月09日

メールが届かない

俺のソフトバンク携帯は、最近メールが届きにくくなった。

急に10何件メールが入ったと思いよくみると、3日前に出されたメールだったりするので焦る。こまめに手動でメールをダウンロードするようにしているが、インターネット接続自体うまくいかないことも多い。

もともと悪かったうちの電波状況だが、ここ数ヶ月の状況は特に酷い。そろそろ我慢の限界かな。。

しかし、3日間メールが届かないということがこれほど焦りを生むこと、これにはおじさん、隔世の感を感じます。

俺が大学生のときはポケベルが全盛でした。プッシュホンの公衆電話等で、相手のポケベルの電話番号を入力し、繋がったら、11で「あ」、12で「い」のような感じで、限られた50文字ほどのメッセージを送る。

好きな人などがいると、言いたいことなんて山ほどあるから、少ない文字で思いを伝えるために必死で知恵を絞ったものだ。

加えて、手紙なんかもよく書いたものです。2、3日に一度手紙が届くのが待ち遠しかったこと

不便もいいものですよ。

・・でも、さらば、ソフトバンク。

キミのことはもう思い出したくもない(笑)
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2007年05月16日

税金が還ってきたの巻

暫定リッチマンである。

M君のおかげで、3月に過去2年分の確定申告を済ませることができ、先日無事税金が還って来た。過去自分が払ったものの一部が戻って来ただけとはいえ、まとめて入るとかなり助かる。

還ってきた税金はもう少し残っていますが、どう有意義に遣おうかと思案中でございます。

服を買ったり身の回りのこまごましたものを買ったりしているうちに、知らない間に無くなっていそうな予感はしますが・・。
posted by よっしー at 08:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 世の中・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月30日

冠婚葬祭

民俗学者、宮田登氏の『冠婚葬祭』(岩波新書)という本を読んだ。必要があって別の冠婚葬祭の本を読んでみたが、このときはどうする、こうするといったマニュアル的内容が中心で、読んでいて苦痛になってきたので。

意味、理由、歴史といった観点に触れるには、学者先生の本が一番良いと思う。

・・が、こういった儀式というのは、村や貴族・武家社会といった、ある程度「閉じた」社会集団を詳細に見ないとよくわからないかもしれないなと思ったのが正直な感想。端々に学者先生らしい鋭い考察や指摘等もあって、結構楽しくは読めたが、薄い本の割にたくさん挙げられた事例がやや断片的過ぎるように思え、精読はしなかった。

巻末に参考文献が挙げられていたので、そちらにもあたってみようかなと思う。冠婚葬祭といった儀礼が、人の生き死にに関わる無意識上の混乱を回避するという動機に注目すると、面白く読み取れそうだと思った。また、こういった儀式を現代に生きる自分にマッチした形でアレンジしてみるのも大事かもしれないと思った。

気づいたことのメモ。

1、儀式には、社会の変化を考慮に入れないとさっぱり理解できないものも多い。

  1. 科学の知識の増大、死亡率の低下・衛生観念の普及といった医療の進歩で、験担ぎや迷信の重要性は薄れているかもしれない。
  2. 都市化によって、経済的・時間的負担が強すぎる儀式に伴う人間関係は、医療や福祉といった社会的な制度に取って代わりつつあるという面もあるかもしれない。
  3. 家制度の縛りが強かった戦前を前提にした、結婚式の意味。
  4. 農業や漁業といった生業が主だった昔と、現代の多様な職業における、「成人」年齢の違い

2、人の生物学的変化に注目すると理解できそうな区切りがある

  1. 産後7日、100日、七五三
  2. 土葬が主だった時代における死後49日(遺体が白骨化するのはこの頃)
  3. 年祝い、厄年

3、純粋に宗教観念に関わるように思える区切りもある

  1. 周忌、盆、神観念
  2. 中陰法要(49日までの7日ごとの法事)、年忌法要(一、三、七、・・・、三十三回忌)、先祖祭り、年中行事

4、成員の社会的資格や肩書きの変化に関わるものもある

  1. 結婚式
  2. 元服、成人式

5、こうしてみると、冠婚葬祭はたぶん、仏教やキリスト教といった、ふつう言われる宗教よりは、起源が古いのかもしれない

〜経といった類の本は結構読んできたが、これらの方が、冠婚葬祭といった儀式儀礼よりもずっと合理的で思弁的な感じがした。

6、中元、歳暮の贈り物のように、元の意味(先祖の霊への贈り物)が変わってしまっているものもある

今では、目上の人に物を送る風習に取って代わっている。
  1. サラリーマン→上司に
  2. 小作人→地主
  3. 子方→親方
  4. 分家→本家
それに対しお年玉は、歳暮のお返しに目上の者が目下の者に物を送るというものになっていたが、この元々の意味は、年魂(年神の霊魂)を力の弱い者に与える、というものであった。
ところで、さらに現代に近づくと、子どもが堂々と親戚にお金をもらえる日になっている。
posted by よっしー at 08:28| Comment(0) | TrackBack(5) | 世の中・社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする