3年くらい前に出たノンフィクションで、内容は有名な携帯小説、『恋空』に似ている。
→ http://natsu.cc
執筆時の作者はまだ女子高生であり、文章表現は、探せば突っ込みどころ満載なほど拙いし、中学生時代に遡る作者の軽率な行動の数々に嫌悪感を感じる向きは相当あると思う。しかし、少なくとも自分と同じような過ちを犯す人が一人でも出ないように、もし誤って苦しんでいる人がいるなら、その苦しみを乗り越えられるようにという、彼女の祈りにも似た真心、真剣さが、真っ直ぐに伝わって来た。
これを読んだ後、パソコンに保存していたH動画を迷わず全部削除しましたよ。
昨晩のお祭りライブ+いつもの痛飲で、今朝は特にフラフラだったが、内容に引き込まれて一気に読んだ。
援助交際やレイプ被害といった性の暗闇部分にこれ以上ないほど傷付き(何度もストレスで吐いたりしてはる)、その一方で、その過去を共に乗り越えた、亡くなった彼氏との充実した時間を過ごした作者だからこそ、
「好きでない人とはセックスをするな」
と本気で言いはるように思う。また、愛する人との別れについてだが、人と人とが一体となり、その間にまるで血液のように心が通ってしまうからこそ、身近な人との別れには身を切り裂くような苦痛を感じ、深く傷付くこととなる。
しかし、深く傷付くからといって、心を通わせることを諦めるのだろうか?
・・諦める、が、ついこの間までの俺の答えであったが、昨日はめいいっぱい心を開き、声を出してみた。
今日の『あおぞら』が先に訪れたのか、昨日のイベントライブが先に来たのか、
「同時に来たのだ」と俺は解釈しております。
2008年08月18日
2008年03月27日
魅力のある文章
しばらく音読にはまっています。
読んで心地のよい文章の極みと言えば・・
古典や!!
ということで、10年くらい前に買った古典の参考書を読みつつ、うだうだいろいろ考えています。
なんかいつも、やってることが一つに収束しません。
が、こうやってうだうだ考えている時間がいちばん楽しいです。古今和歌集より、
春風は 花のあたりを
避(よ)きて吹け
心づからや
うつろうと見む
春風は花のあたりを避けて吹いてください、花は放っておいても勝手に(心づから)散るんやから、というような意味みたいです。
文章がきれいやと、記憶に残りやすいです。高校・大学のとき、語学と同じくらい気合いを入れてやればよかったと、つくづく思います。
図書館で子ども向けの童話などを読んでみると、文章に引き込む力がないというか、ぶっちゃけ魅力の少ないものが多い気がします。
学習漢字表とにらめっこして、おとな目線で手加減して書いたようなものはいかんと、個人的には思います。
2008年03月05日
話を覚えることが必要?
子どもなどに、お話を聞かせる場面を思い浮かべてみる。
本を傍らに置かず、何も見ずに一から語るというのはやはりしんどい。
そこで、書かれたことを読み上げるわけだが、そうすると、あとで聞いてもあまり面白くないのではないか? いや、一人で黙読しているよりはずっといろんなことに気づかされるのは確かだが、これではまだ、物語が持っている可能性を十分に引き出せていないような感がある。
話を覚えることが必要なのではなかろうか?
あるいは、全部を丸暗記とまではいかないまでも、講演などでよくするように、話のアウトラインだけ大まかに決めて、後は聞き手の反応を見ながら話す内容や表現を選び、口に出して伝えてゆく。
聞く人の反応に従って、話も多かれ少なかれ変化してゆくというプロセスが存在するには、書かれて一字一句まで固まってしまった文章はやはり、足かせというか、あって望ましくないたぐいの制限に思える。
「話せる」くらいの明確さで、覚えて、身につけて、あとは話を聞く人の反応と一体になりつつ言葉を紡いでゆく。
そういった場に身を置いてみたいものだし、また、そういった場を作る体験もしてみたい。
本を傍らに置かず、何も見ずに一から語るというのはやはりしんどい。
そこで、書かれたことを読み上げるわけだが、そうすると、あとで聞いてもあまり面白くないのではないか? いや、一人で黙読しているよりはずっといろんなことに気づかされるのは確かだが、これではまだ、物語が持っている可能性を十分に引き出せていないような感がある。
話を覚えることが必要なのではなかろうか?
あるいは、全部を丸暗記とまではいかないまでも、講演などでよくするように、話のアウトラインだけ大まかに決めて、後は聞き手の反応を見ながら話す内容や表現を選び、口に出して伝えてゆく。
聞く人の反応に従って、話も多かれ少なかれ変化してゆくというプロセスが存在するには、書かれて一字一句まで固まってしまった文章はやはり、足かせというか、あって望ましくないたぐいの制限に思える。
「話せる」くらいの明確さで、覚えて、身につけて、あとは話を聞く人の反応と一体になりつつ言葉を紡いでゆく。
そういった場に身を置いてみたいものだし、また、そういった場を作る体験もしてみたい。
黙読向きの言葉、お話し向きの言葉
物語を自分で音読したのを録音してみて、後で聞いてみる。
お話を読んだり、聞かせたりといった中に起こる感情の動きを追ってみたかったからだ。いろいろ試しているうちに、市販の物語の本の中には、音読向きのものと、黙読向きのものがあるのではないかと思った。
日本の民俗学の創始者として有名な柳田国男氏が書いた、『遠野物語』は黙読向きである気がする。人を介して知り合ったやや後輩にあたる遠野出身の佐々木氏から聞いた話を、柳田自身がまとめたものであるという事情もあってか、不思議ではあるが詳細を極めた事物名や地名を織り込んだ話が、凝縮された文語調で簡潔に記されている。
声に出して読んでみてもいまいち心地よくなかったが、注意深く前に後ろに戻って読んでみると、それらの詳細な物の名前や土地の名前、お話が密接に連関しあって、遠野という一つの世界を記述しているように思えてくる。
感情の流れというよりは、思考に訴えかけてくる世界の記述といった感じで、これも悪くないと思う。
一方、音読して楽しい物語は、文章に書かれたものを見ると、中身がスカスカで間の抜けたものに思えることって、ままあるのではなかろうか?
例えば、文学とは事情は少し違うが、お笑い番組の話の内容を紙に書いてみると、そのあまりの内容の無さに愕然とするであろうことは間違いない。
しかし、ライブで、それを笑いながら見ているときは、その無内容なはずの言葉が生き物のようになって、「場」の空気をわしづかみにしているのである。
このような言葉の生き物的な性質については、俺は今の今までほとんど、思ったり、考えたりしていることの俎上に乗せて検討してみたことがなかった。
俺がよく聞いた「本を読むな」という忠告は、このようなライブ性へのまなざしを読書が奪うということへの警告を含んでいたのかもしれない。
お話を読んだり、聞かせたりといった中に起こる感情の動きを追ってみたかったからだ。いろいろ試しているうちに、市販の物語の本の中には、音読向きのものと、黙読向きのものがあるのではないかと思った。
日本の民俗学の創始者として有名な柳田国男氏が書いた、『遠野物語』は黙読向きである気がする。人を介して知り合ったやや後輩にあたる遠野出身の佐々木氏から聞いた話を、柳田自身がまとめたものであるという事情もあってか、不思議ではあるが詳細を極めた事物名や地名を織り込んだ話が、凝縮された文語調で簡潔に記されている。
声に出して読んでみてもいまいち心地よくなかったが、注意深く前に後ろに戻って読んでみると、それらの詳細な物の名前や土地の名前、お話が密接に連関しあって、遠野という一つの世界を記述しているように思えてくる。
感情の流れというよりは、思考に訴えかけてくる世界の記述といった感じで、これも悪くないと思う。
一方、音読して楽しい物語は、文章に書かれたものを見ると、中身がスカスカで間の抜けたものに思えることって、ままあるのではなかろうか?
例えば、文学とは事情は少し違うが、お笑い番組の話の内容を紙に書いてみると、そのあまりの内容の無さに愕然とするであろうことは間違いない。
しかし、ライブで、それを笑いながら見ているときは、その無内容なはずの言葉が生き物のようになって、「場」の空気をわしづかみにしているのである。
このような言葉の生き物的な性質については、俺は今の今までほとんど、思ったり、考えたりしていることの俎上に乗せて検討してみたことがなかった。
俺がよく聞いた「本を読むな」という忠告は、このようなライブ性へのまなざしを読書が奪うということへの警告を含んでいたのかもしれない。
2008年03月04日
風の又三郎を読んで
(今から半月ほど前に書いた感想だが、ふと読み返してみて我ながら面白かったので書き残しておきます)
有名な宮沢賢治の童話。
話の始まりとなる村の小さな小学校は、全校生徒がわずか20人ほど。一つの教室の中で、1年生から6年生のすべての子供たちが勉強している。
小さい教室に年の離れた子供たちが一緒になって勉強したり、放課後は野山や川で遊んだりしているわけだから、そのクラスは、現代の都市の学校におけるような、同じ年齢の子供が3、40人と集まった等質的な集団ではない。
唯一人の6年生である一郎はやはり、年長者として落ち着きがあって、ある程度は物事を冷静に見ているところがあるし、二人いる1年生は、冒頭の場面で、後に「又三郎」と皆が呼ぶことになる赤い髪の転校生三郎を見て、怖くてわっと泣き出してしまう。遊びの中心となるのは5年生の子供たちであり、4年生だけがいないが、皆が皆、下の名前で呼び捨てにし合うような関係である。
そういった小さな集団の一人一人が、一瞬でわっと、三郎の中に、風の精又三郎を感じとるわけである。
その不思議さ。
この話には言葉を話す動物も出て来なければ、あるはずのものが急に消えたり、ないものが急に現れたりといった魔法のようなことは起こらない。
今から80年ほど前の田舎の学校における、夏休みを終えて新学期に入ったばかりの子供たちの日常が描かれているだけである。
それなのに、おそらくは皆が幼かった頃に感じていた不思議な感じ、世界の広がりを追体験させてくれる。
冒頭の、
どっどど どどうど
どどうど どどう
すっぱいかりんも吹きとばせ
という詩からして、冷めた目で見れば、今でいう台風の吹き荒れるさまを描写したものに過ぎないのであるが、のっけからこのような不思議な言葉で、大人の自分にも、実際に今生きて、風とともに空を駆けている又三郎を予感させてくれる。
そして遊ぶ子供らの生活や気持ちの描写を追ううちに、彼らの中では確かに、風の又三郎がそこで生きていることを実感することができるのだ。
なかなかすごい本やったと思う。
有名な宮沢賢治の童話。
話の始まりとなる村の小さな小学校は、全校生徒がわずか20人ほど。一つの教室の中で、1年生から6年生のすべての子供たちが勉強している。
小さい教室に年の離れた子供たちが一緒になって勉強したり、放課後は野山や川で遊んだりしているわけだから、そのクラスは、現代の都市の学校におけるような、同じ年齢の子供が3、40人と集まった等質的な集団ではない。
唯一人の6年生である一郎はやはり、年長者として落ち着きがあって、ある程度は物事を冷静に見ているところがあるし、二人いる1年生は、冒頭の場面で、後に「又三郎」と皆が呼ぶことになる赤い髪の転校生三郎を見て、怖くてわっと泣き出してしまう。遊びの中心となるのは5年生の子供たちであり、4年生だけがいないが、皆が皆、下の名前で呼び捨てにし合うような関係である。
そういった小さな集団の一人一人が、一瞬でわっと、三郎の中に、風の精又三郎を感じとるわけである。
その不思議さ。
この話には言葉を話す動物も出て来なければ、あるはずのものが急に消えたり、ないものが急に現れたりといった魔法のようなことは起こらない。
今から80年ほど前の田舎の学校における、夏休みを終えて新学期に入ったばかりの子供たちの日常が描かれているだけである。
それなのに、おそらくは皆が幼かった頃に感じていた不思議な感じ、世界の広がりを追体験させてくれる。
冒頭の、
どっどど どどうど
どどうど どどう
すっぱいかりんも吹きとばせ
という詩からして、冷めた目で見れば、今でいう台風の吹き荒れるさまを描写したものに過ぎないのであるが、のっけからこのような不思議な言葉で、大人の自分にも、実際に今生きて、風とともに空を駆けている又三郎を予感させてくれる。
そして遊ぶ子供らの生活や気持ちの描写を追ううちに、彼らの中では確かに、風の又三郎がそこで生きていることを実感することができるのだ。
なかなかすごい本やったと思う。
2008年03月02日
「物語」という生き物
先日、ある方と飲んでいたときのこと。
いつものごとく、相当酔っ払っていたので、普段なら口下手を気にして絶対しないと思うが、ふと頭をよぎったある昔話を是非聞いてもらいたいと思って、思い切って話してみた。
話の内容はまた機会があれば書こうと思う。
今回びっくりしたのは、実際話してみると、一人で活字を追いながら黙読しているときとは全く次元の違う、異質の体験をしたことだ。
何が違うのかということをここ数日ずっと考えていたが、まだもやもやして落ち着かないので、仮にまとめておこうと思う。
箇条書きで列挙してみる。
1、聞いている人がいる以上、物語が生まれてきた潜勢力のようなものに反したことは言えないこと。
2、話のリアリティを損なうような言葉は選べないこと。
3、話を聞く側・話す側の自然な感情の流れを乱さないように、話す順序や言葉の選択には、保守的ないし慎重にならざるを得ないこと。
4、話す側であるこちらでさえ、聞いている人の反応を通して、話の内容について気付かされることが多いこと。
5、・・と、いうか、物語を共有しているその時、その場が、生き物のようにうねって動いていて、そこに自分が巻き込まれているような感に囚われること。
**********
さて、このような感じで、実際に話すという場面の重みに比べれば、本などの形で書かれて記述された物語というのは、二次的で、どこか詰めの甘いものにならざるを得ないのではないか?
では、書かれた物語を読むときに心掛けるべきことは何なのだろうか? 思い付く限り挙げてみた。
1、元のテキストは必ずしもその物語を語るベストの表現ではないことを肝に命じておくこと。
2、言葉を頭から、順番に、丁寧に読み上げてみて、そのときに起こる感情の動きによく留意すること。
3、2の感情の動きが乱されるなら、その部分はそれを読む自分にとってはベストな表現ではないということである。
4、3の場合は、「元の」テキストを自分なりに改変することを恐れないこと。
5、ただし、それを作品として発表したり、ブログやホームページなどの場で発表するときは、もちろん著作権に十分配慮する必要はあるのだが。
6、上記の改変は、物語を聞く相手により相当変わり得ることにも留意すること。
少し前読んだ、臨床心理学者河合隼雄先生の本に、物語には、人と人、人と物などを「繋ぐ」働きがあるという記述があった。
実はよくわからなかった点だが、今、特に気になっているところである。
いつものごとく、相当酔っ払っていたので、普段なら口下手を気にして絶対しないと思うが、ふと頭をよぎったある昔話を是非聞いてもらいたいと思って、思い切って話してみた。
話の内容はまた機会があれば書こうと思う。
今回びっくりしたのは、実際話してみると、一人で活字を追いながら黙読しているときとは全く次元の違う、異質の体験をしたことだ。
何が違うのかということをここ数日ずっと考えていたが、まだもやもやして落ち着かないので、仮にまとめておこうと思う。
箇条書きで列挙してみる。
1、聞いている人がいる以上、物語が生まれてきた潜勢力のようなものに反したことは言えないこと。
2、話のリアリティを損なうような言葉は選べないこと。
3、話を聞く側・話す側の自然な感情の流れを乱さないように、話す順序や言葉の選択には、保守的ないし慎重にならざるを得ないこと。
4、話す側であるこちらでさえ、聞いている人の反応を通して、話の内容について気付かされることが多いこと。
5、・・と、いうか、物語を共有しているその時、その場が、生き物のようにうねって動いていて、そこに自分が巻き込まれているような感に囚われること。
**********
さて、このような感じで、実際に話すという場面の重みに比べれば、本などの形で書かれて記述された物語というのは、二次的で、どこか詰めの甘いものにならざるを得ないのではないか?
では、書かれた物語を読むときに心掛けるべきことは何なのだろうか? 思い付く限り挙げてみた。
1、元のテキストは必ずしもその物語を語るベストの表現ではないことを肝に命じておくこと。
2、言葉を頭から、順番に、丁寧に読み上げてみて、そのときに起こる感情の動きによく留意すること。
3、2の感情の動きが乱されるなら、その部分はそれを読む自分にとってはベストな表現ではないということである。
4、3の場合は、「元の」テキストを自分なりに改変することを恐れないこと。
5、ただし、それを作品として発表したり、ブログやホームページなどの場で発表するときは、もちろん著作権に十分配慮する必要はあるのだが。
6、上記の改変は、物語を聞く相手により相当変わり得ることにも留意すること。
少し前読んだ、臨床心理学者河合隼雄先生の本に、物語には、人と人、人と物などを「繋ぐ」働きがあるという記述があった。
実はよくわからなかった点だが、今、特に気になっているところである。
2007年10月19日
晩年の芥川
最近は、青空文庫という著作権切れの本を電子化したサイトを覗くことが多い。
http://www.aozora.gr.jp/
死後50年以降を経過して著作権が切れた作家の本ならたいていあります。
俺はあまり小説が好きではないのですが、ふと、俺がまだ中坊の頃背伸びをして読んでイマイチ面倒だった夏目漱石等目にしてみると、えらく面白いのでびっくりしました。人生経験でしょうか?(笑)
文章のリズムが良くて読んでて心地よいし、有名な作家はよく研究されているので、ああ、これを書いた時は胃潰瘍で血を吐きまくっていた頃やなとか、自殺する直前やなとか、世間に認められるきっかけになった作品はやっぱりおもろいし、引き込まれるものがあるな、とかがわかるので、なんかはっとさせられることが多いです。
とりわけ好きになったのは芥川龍之介。
彼の短編で、「僕の母は狂人だった」の一節で始まる『点鬼簿』や、まさに彼の自殺直前の、日常をよぎる死に関わるイメージというか妄想を綴る『歯車』などは、読んでいて、息を呑んだ。
でも、不思議と心地よいのはなぜだろうとも思った。
死を選ぶ人が、これほど冷静で、澄んだ目でものを見ている。
http://www.aozora.gr.jp/
死後50年以降を経過して著作権が切れた作家の本ならたいていあります。
俺はあまり小説が好きではないのですが、ふと、俺がまだ中坊の頃背伸びをして読んでイマイチ面倒だった夏目漱石等目にしてみると、えらく面白いのでびっくりしました。人生経験でしょうか?(笑)
文章のリズムが良くて読んでて心地よいし、有名な作家はよく研究されているので、ああ、これを書いた時は胃潰瘍で血を吐きまくっていた頃やなとか、自殺する直前やなとか、世間に認められるきっかけになった作品はやっぱりおもろいし、引き込まれるものがあるな、とかがわかるので、なんかはっとさせられることが多いです。
とりわけ好きになったのは芥川龍之介。
彼の短編で、「僕の母は狂人だった」の一節で始まる『点鬼簿』や、まさに彼の自殺直前の、日常をよぎる死に関わるイメージというか妄想を綴る『歯車』などは、読んでいて、息を呑んだ。
でも、不思議と心地よいのはなぜだろうとも思った。
死を選ぶ人が、これほど冷静で、澄んだ目でものを見ている。


