2008年10月08日

流した涙は雨となり

(mixiより転載)

「投影」いうのをご存知でしょうか?

昔、深層心理学のテキストで数行の説明を読んだだけなので、それほど詳しくはないのですが、確か、フロイトが言ったことだったと思います。

自分の中にある自分が認めていない感情を相手の中に見る、すなわち、自分の影を相手に投げかけるわけです。

俺がものすごく多いのだと、相手が俺のことをバカにしているとか、軽蔑しているとか、値踏みして切り捨てようとしているとか、そういった負の感情が非常に多いです。

しかし、今書いていてドキっとしましたが、相手を憎んだり軽蔑したりしているのは、本当は俺の方で、相手は一つもそんなことを思っていないとしたら、・・なかなか恐ろしくなりますよ。

相手に、自分の影を投げかけている。

本当に自分は、相手のことを理解しているのだろうか? 誤解しているのではないだろうか? すれ違っているのではないだろうか?

しかし、人間関係の恐ろしいところは、そういったその場で起こっている感情が、まさにそのときには決して冷静に把握できないということです。

冷静に把握できてしまったときには既に、心は生き生きと働いていない・・

さて、ここまでが前置き。

今、俺が書いたのは、負の感情についてです。正の感情が投げかけられることもあります。そして、その投げかけを相手もこちらに対してしていることがあって、それが恐ろしく噛み合ってしまっていることがあります。

・・すなわち、恋愛です。

この夢から、果たして自分は目を覚ましてしまった方が良いのだろうか? ところが、今、俺が心苦しく思うのは、その夢から覚めてしまったときには既に、そこには心が働いていないということなのです。

もう少しの間、この夢の中で、身を焦がしていたいと思います。そして、それが、明日に向かう原動力となるように。

・・きっと、なります。

「流した涙は雨となり、僕の心の傷、癒す」

まさに、今、そういう体験をしているところです。あの人に投げかけた優しい気持ちが、言葉が、共感が、こちらの心の傷を洗い流してくれるような体験です。

実現を期するだけが、恋愛ではないと思います。
posted by よっしー at 09:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 出来事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月02日

純理英訳読破

カントの『純粋理性批判』という本だが、1年くらいかかって、昨日やっと英訳も読破できた。全部で700ページあったが、外国語で読むしんどさを含めても、日本語版に比べるとかなり読みやすかった。以前日本語訳で読んだときは全体の半分くらいしか内容を理解していなかったことに気づいた。

ついでに英語力もついていると非常にうれしい。
posted by よっしー at 10:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月18日

心理系大学院の願書

受験シーズンにはやや遅れた感じですが、片っ端から取り寄せて眺めています。

過去問題を同封してくれる大学も結構あって、すごく参考になる。

英語は対策なしでも大丈夫そうやけど、他が思っていた以上に厳しい。とりわけ厳しいのは「研究計画書」。欲しい某心理士の資格を取るためには指定大学院の修士号を取る必要があるが、大学時代に論文を書かなかったので研究の仕方とか先行研究とか言われるとさっぱりや。

まず学費を稼ぐことから始めるのでこの先何年かは働き詰めやろうけど、ボランティアにせよ何にせよ、実際の現場に飛び込むことも必要そうです。

あと心理学。一応放送大学では一通り学んだんやけど、大方の科目は試験一週間前のやっつけ仕事だったので、ほぼ忘れています。

いわゆる「心理学者」の書いた本は結構読んでいるけど、大学で学ぶと想定されている心理学とはほとんど重なりません。

全く新しいところに飛び込んで行くような感。
posted by よっしー at 20:51| Comment(0) | TrackBack(0) | その他教養 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月08日

朝日選書の中国古典選シリーズが好き

日経新聞の名物連載に、「私の履歴書」いうのがありますが、今月はノーベル化学賞を受賞した野依良治さんです。

京都大学出身ですが、学生時代は京大人文科学研究所に著名なすごい人がたくさんいました、という話があって、桑原武夫さんという仏文学者ほか、俺がmixiのプロフィールに書いている好きな本の著者とも何人か重なっていて、へぇ〜と思ったのですよね。

で、俺が最近知って特に注目している人に吉川幸次郎さんという中国文学者がいはるのですが、その方も、野依氏は大変尊敬してはる様子でした。

俺がなんでつい最近、吉川氏に注目しているかというと、氏は、朝日選書の中国古典選シリーズの監修をしてはるのですよね。で、ご自身も論語等を訳してはるのですが、シリーズにはもちろん、五経の筆頭に挙げられる古典中の古典、『易経』もあります。訳を担当したのは本田濟さんという違う方ですが、この本を今、読んでいるのです。これがほんますばらしいの一言です!

中国語の本文に、書き下し文、そして、現代語訳も含んだ詳細な解説が続いているのですが、この解説がほんまにすばらしい!

本文の一言一句がきちんと、漢文の素養のほとんどない現代人でもわかるように、丁寧に、きちんと意味の通る形で解説されています。

ここまで読者をきちんと見て書かれたような丁寧で本格的な解説を、日本人著者の書いた本で目にすることは滅多にないです(洋書ならたくさんあるけど)。分量は600ページくらいでかなり大部ですが、すべての記述が元の本文を解釈するという一点に焦点が合わされており、冗長な印象が全くないです。

こんな素晴らしい古典シリーズを監修してはったんやないうことで、吉川氏には注目していたのですが、野依さんという理科系の学者先生の自伝的連載で不意にお名前を目にしてえらくびっくりしたのでした。

俺自身は、京大に行けるほど頭は良くなかったけど、読書という点では京大絡みの学者先生の著書にどれだけ助けられたことか・・

読者を煙に巻くような難解な本か、逆に、読む人をナメ切ったような内容の薄い「入門書」が数多い現状の中、こういった本を書かれている方々いうのは日本の良心やと思います。
posted by よっしー at 07:46| Comment(0) | TrackBack(0) | その他教養 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月31日

1人より3人が良い・・かも(自由の原理よりは型の原理で動く)

以前にも書いた、某学者さんの、今から約50年前のアメリカ留学の体験の話に、次のようなものがありました。UCLAのソーシャルダンスのクラスでの教え方についてです。

「日本人がダンスを教えるいうたら、足の型を書いて『スロー、スロー』とかやるでしょう。それをしないんですね。ただ、みんなを音楽に合わせて歩かせるんですよ。どんどん歩いているうちに、ちょっと足をちゃっちゃと変えたりなんかしてね。
 それで、いちばん初めに教えるのがチャチャチャなんです。ワン・ツー・チャチャチャでしょう、『そう、もうできているじゃないか、おまえは』というわけですよ。そういうふうにしてどんどん教えていく。『ああ、やっぱりうまいなあ』と思いました。楽しく楽しく、自由に自由に、それでちゃんと教えていくんですからね。」(河合隼雄『未来への記憶』)

ところで昨晩、音楽番組のライブ映像に感銘を受けて、次のような記事をmixiの方に書いたわけです。

**********

MTVというケーブルテレビの音楽番組で、今、イベントライブを見ている。

日本人アーティストは、1人だと妙にパッとしないというか、ギクシャクしていて窮屈な感じがするが、3人以上くらいの集団で「合わせて」やると急に生き生きして面白く、しっくり来る感じが出て来る。

一方で欧米人のアーティストは、1人でパフォーマンスをしていても、めちゃめちゃ格好良く、自由で、動きにキレがあるが、だからといって3人以上の集団で動いていても、全体ではキレイにまとまる。

日本言うたかて、十分欧米化したんちゃうかと漠然と思っていたが、普段見ない音楽番組を目にするだけでも、こういった違いが明らかに目に入って来るのは不思議だと思いました。

ちなみに俺は完全に欧米ばんざいとか思っているタチですが(読む本はたいてい欧米人著者)、普段のものの「考え方」とか、ライブ映像などで端的に見て取れるような「動き」とか「呼吸の合わせ方」のような部分では、やはりどう逆立ちしても日本人っぽいのだろうなとふと思った。

日本人で無理に個性を追求してしまうと、黒人歌手のステージに上がって、喜々として浮いた踊りをしてはったファンの人達のように、1人でも集団でも機能できないようになってしまうのではないか、それならむしろ個は捨てて、集団の中で機能できる道を取る方が良いのではないかと思ってしまった。

言うても、俺自身は空気を読めない方なので、今更3人の方に向かうのもきついなとも思います。

うーん。

**********

で、ここで取り上げたい話の趣旨は、

1、日本人アーティストは、あくまで欧米人と比較した上でという話だけれど、一人で舞台にいると動きが固くてぱっとしない。
2、黒人アーティストのステージに日本人の観客が数人上げてもらって一緒に踊っていたとき、もの凄く違和感があった

という2点です。

とりわけ、2については、みんなリズム感が悪いとかいうことは全然ないのですよ! 熱心なファンで、どんな曲かとかも知っている上で舞台に登っている人ばかりに見えましたし。

冒頭に引用した本の一節の表現を借りれば、「自由」でないのです。もうほんまに、徹底的に自分が思うように、しっくりくるように試行錯誤をして、体を動かしてきたという個人史が動きに感じられない。

このときはこうするというような感じで、型をなぞるような雰囲気がどうしてもあるわけです。しかもその型は、めいめいが勝手に用意してきたものである感じがある。その証拠に、踊っているみんなの動きがバラバラなのですよ。本当に自分の内側から、こうしたい、こう動くと気持ちが良いという感覚に従って動いていないから、周りの動きに対して柔軟に呼吸があって行かない感じがある。

皆、思い切って踊っているし、たぶんリズム感なども良いのだけれど、周りと合っていない感じ、バラバラな感じ、言葉は悪いけど「浮いた」感じがどうしてもあるわけです。

良く、個性、個性と言われるけど、スローガンとしては、一日本人として耳にタコができるほど聞かされていることなのに、この「個性」を育てていくための試行錯誤の厚み、好きなように、自分自身の感覚を大事にして、しっくりくるように体を動かしたり、言葉を選ぶということを徹底的にしてきたかどうかという点で、もう、大人になるまでの個人史が日本人と欧米人は全然違うのではないかというようなことを、すごく思いました。

一方で、日本人アーティストは、3人以上くらいで合わせて何かをするとなるとすごくキレイに決まる。動きなども自然で思い切りが良く、見ていても心地が良かったり、面白かったりもする。

モーニング娘などを思い出します。

ソロ活動を始めた途端に、グループにいた頃ともう、全然違う。すごく固く、見ていてパッした感じというか花がなくなってしまう。

何というか、どちらが良いとか悪いとかではなくて、人間関係でどう振る舞っていくかという根本的な原理からして違うのではないかと思いました。皆で申し合わせて決まった動き(=型)を決めて、アルゴリズム体操のような要領でパッと決めてしまう。これが日本人向き。

欧米人は、膨大な試行錯誤の上から出てきた動きを、最後の最後でちょこっとすり合わせる。試行錯誤の個人史に厚みがあるから、それぞれの動きにはそれなりに合理性がある。だから、集団で動くときもそれほどバラバラにはならない。

と、このような仮説を立てて見ました。

いずれ変わるかも知れませんが。
posted by よっしー at 08:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 遊び・趣味 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月27日

「拍動する度に照らしだされる瞬間像」という体験

(ぶつぶつの続き)

音楽体験におけるようなアクチュアリティの中で、人びとや、動物たち他様々な事物は、密接に絡み合い、連関している。世界の果てに至るまで、その連関の鎖は続いている。

その連関を、私は、無数の瞬間像が重ね合わされ、連なったものとして、つまり、私が生きている限り脈々と続いている拍動の中にあるものとして、すなわち「時間」の体験として感じとる。

時間という拍動が、それが拍動する度に、闇夜を切り裂く雷光がパッと空全体を明るくするようにして、絶えず「瞬間」を浮かび上がらせている。

この拍動が、時間が、すなわち「自分」という主体である。そして、時間が絶えず浮かび上がらせている事物の連関は、もちろん私の身体にも絡み付いている。

私も、この連関における行為主体なのである。

アクチュアリティへの入り口は私という主体であり、身体である。すなわち拍動である。


ぶつぶつ・・
posted by よっしー at 17:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 遊び・趣味 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

FMを聴きながらぶつぶつ考えていること

楽譜には、音符が並んでいる。

音符のそれぞれは、音の高さと、長さを示している。

ある長さと高さをもつ音符を組み合わせて和音ができ、そこに音を聴いた人は何らかのイメージをもつ。

また、一つの音符ないし和音の前後関係からも、何らかのイメージが生まれてくる。

楽譜に表せないことでは、楽器の音色にもまた、イメージが伴っていて、ある楽器には女性を感じさせられたり、別の楽器には男性や子供を感じたりする。

また、心臓の拍動とか、足の歩みとか、その他の体の動き、鳥のさえずりなども感じとれたりする。

さらには、楽器の奏で方、そもそもどれを、いつ、どこで、どのように弾くかという弾き手の選択の一つ一つにも、人や動物のような人格的なまとまりを感じさせられる。

ともあれ、この、さまざまの人や、動物や、血の拍動や体の動きのような大きなまとまりが、個々の音符や和音やメロディーをまとめあげ、それらに血を通わせ、魂を与える。

だが、結果的に感じ取っているのは、流れる音楽を絶えず紡ぎ続けている人や動物達といった大きなまとまりである。

だから、音楽とは、個々の音という小さな選択に血を通わせている大きなまとまりたち、いわば、霊たちの戯れである。

みたいなことをぶつぶつ考えています。
posted by よっしー at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 遊び・趣味 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月25日

ニッポン人脈記「絵本きらめく」

(mixiより転載)

朝日新聞夕刊の連載記事、「ニッポン人脈記」。今日からはしばらく、全国の様々な現場(医療、保育、福祉等)で読み聞かせの活動をしている人たちの活動を辿ってゆく内容だ。

字が読めるようになって以来、子供ができたり仕事で必要だったりといったよっぽどの事情がない限り、たいていの大人は本といえば一人で黙読ということになっていると思う。

しかし、例えば子供を前にして、共に時間を過ごすというもしかしたら消極的だったかも知れない動機から読み聞かせを始めた方々が、その「お話」の共有体験の素晴らしさに感激するわけです。

記事で紹介されていた小児科医の一人は、お母さんに抱かれた13人の赤ちゃんを前に読み聞かせをするとき、むずかっていた子供も含めてすべての赤ちゃんがいっせいにこちらに目を向け、静かになる瞬間について、「魔法みたいだ」と形容しています。

きっと、お話の展開の一つ一つに耳を澄ませ、目を輝かせる子供たちと過ごす一瞬一瞬についても、同様に奇跡か魔法のように思えていることだと思います。

人間は2つの世界に生きています。

1つは、リアリティの世界。すなわち、北京オリンピックが昨日終わったとか、日本の金メダルはいくつだったとか、今日の西日本は北から入った寒気の影響で涼しい朝だったとかいった、「事実」の世界、言葉で説明したり把握できる世界です。

もう1つは、アクチュアリティの世界。夢中で友人と話しいて、後から振り返ってみると楽しかったことだけは覚えているけど、何を話したかは詳しくは思い出せないときのような、あるいは音楽の合奏やライブなどで、その「場」に没入していて、その場にいる人たちと共通の感情体験をしているときのような状態です。

絵本の読み聞かせというのは、それがうまく行ったときには、この「アクチュアリティ」が働くのだと思います。

心理カウンセリングなどは、一対一で相談者と時間を決めて合う場に、治療的なアクチュアリティをもたらすような仕事であると思います。

このような感情体験は、言葉でそれそのものを表すことができない。

言葉で表せるのは、そのような体験が起こるまでに必要なこちら側の心構えや態度にはどのようなものがあるかという「入り口」の部分、そして、そのような体験を事後的に記述して分類するような部分、すなわち「出口」を通して振り返られた部分だけということになります。

ふと思い出しましたが、源氏物語のようなすぐれた小説などは、黙読するだけにせよ、読者をこの「アクチュアリティ」に引っ張り込む話の要素や舞台装置、文体等々の選択や配置が絶妙です。

お受験とか、競争に邁進して、点数や評価に繋がるような知識を詰め込むことだけをしていたり、他人を蹴落とすことだけを考えていると、このアクチュアリティの体験を案配したり共有したりする能力が絶望的に鈍ります。そして酷い孤独感を感じることになります。

大変ちぅいが必要です。
posted by よっしー at 19:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 哲学・心理・宗教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月22日

河合隼雄さんの人脈を辿る

2001年出版の、臨床心理学者河合隼雄さんの自伝を読んだ。

書名は『未来への記憶』。上下巻で2分冊の岩波新書である。

昨年夏に亡くなったが、俺はこの方を、ものすごく尊敬している。直接会ったことはないが、亡くなったときはほんまにショックで、それ以来なんとか、俺が河合先生から受け取ったものを読み直すなりまとめるなりしようとしてきた1年であった。

この自伝には、たくさんの人が出てくる。河合先生はもうこの世にいないわけだから、何とか先生が影響を受けたり、与えたりした方を知りたいと思ったので、本の記述を参考にリストアップしてみる。


1、高校教師、京大大学院生、天理大学講師時代。ロールシャッハテストに取り組んでいた頃(1952年〜)

(京都ロールシャッハ研究会)
・高橋雅春:京大文学部の心理を出て、少年鑑別所で心理テストをしていた。河合氏がロールシャッハテストを学ぶ。後に京都ロールシャッハ研究会をつくる。
・藤岡喜愛:元は植物学。のちに精神人類学の方向へ。河合氏が大学生の頃からロールシャッハに熱中していた。京都大学の人文科学研究所に所属。
・池田徹太郎:当時文学部の学生。河合氏の近所に住んでいて、ロールシャッハのことをしばしば話し合う。
・牧康夫:岩波新書『フロイトの方法』という本をまとめる。臨床的なことを理論的に考えていた方。京大人文科学研究所に所属。シェルドンの人格理論に興味。
・林脩三:精神科医で、鑑別所の所長や児童相談所の所長をしていた。河合氏が身近な人の自殺にショックを受けたとき、相談する。
・辻悟:当時阪大医学部の講師で大変活躍されていた。

(京都大学、教育相談。河合氏も当時参加)
・正木正:もともとは性格心理学。臨床的なことに関心を持つようになっていた。
・倉石精一:臨床的なことに関心。
・黒丸正四郎:臨床的なことに関心。後の神戸大学医学部教授。

(天理大学)
・長谷山八郎:天理大学短大で教育学を教える。実践的なことにものすごく関心があった方。

(京都大学人文科学研究所、当時シェルドンの人格理論が流行る)
・今西錦司
・鶴見俊輔
・桑原武夫
・藤原喜愛:前述
・牧康夫:前述

(その他)
・水島惠一:いま(2001年?)文教大学の学長。もとは法律専攻だが、非行少年を見ていて臨床心理学を志し、外国へ行く。
・片口安史:東京でロールシャッハに取り組む。精神衛生研究所に所属。
・カール・ロジャーズ:アメリカの心理学者で、非指示的カウンセリングの提唱者。京大で臨床心理学に興味を持った人たちがまず取り入れたのが、この人の考え方だった。
・ボーディン:ミシガン大学教授。京大で集中講義を行う。臨床心理学が体系付けられていることを河合氏が感じとる。
・高橋義孝:ドイツ文学者。日本教文社から、『ユング著作集』を出す。


2、カリフォルニア大学ロサンゼルス校<UCLA>留学時代(1959年〜)

(UCLAスタッフ)
・ブルノー・クロッパー:ドイツ系ユダヤ人。ロールシャッハの大家でUCLA教授。当時『投影法ジャーナル』という雑誌を主宰。ロールシャッハについては、「現象学的接近法」という立場。ユング派の重要な分析家でもある。
・シュピーゲルマン:ドイツ系ユダヤ人。クロッパーの弟子で、河合氏の教育分析を行う。クロッパーの紹介でユング研究所に行き、分析家の資格を取る。ユング研究所の第一回卒業生。
・シーハン:大学院のセミナーで投影法のテストを教える。講義は大変人気があった。

(UCLA学生)
・坂本百大:河合氏と同時期にUCLAに留学。哲学。
・目幸黙僊:後に日本人としては2人目のユング分析家になり、アメリカの大学教授になる。

(その他)
・ベック:ロールシャッハについてはクロッパーと共に、当時のアメリカで大変高く評価されていた。
・マックス・ツェーラー:ユダヤ系ドイツ人。河合氏がシュピーゲルマンの紹介で行ったユング派の集まりで知り合う。


3、スイス留学時代(1962年〜)
ちなみにユングは、河合先生が出発する前年に亡くなっていた。

(ユング研究所スタッフ)
・フランツ・リックリン:ユング研究所所長。河合氏のスーパーバイザーの一人(結局、全部で5人に頼む)。
・ジェームズ・ヒルマン:シュピーゲルマンの友達で、ユング研究所のディレクター・オブ・スタディーズ(教務主任のようなもの)。
・マイヤー:河合氏の教育分析を担当した。後に、スーパーバイザーも頼む。クロッパーとシュピーゲルマンが、彼に就くよう、河合氏に強く勧めた。
・フォン・フランツ:女性。昔話研究の大家。河合氏のスーパーバイザーの一人。
・バーバラ・ハナー:女性。イギリス人。フォン・フランツと仲良し。ユングに心酔。
・ドクター・フレー:女性。河合氏の最初のスーパーバイザー。分析家も担当(?)
・ヨランド・ヤコービ:女性。ハンガリーの貴族でユングに心酔。死に物狂いでユング派分析家となる。絵の解釈の専門家。河合氏のスーパーバイザーの一人。最後、ユング派資格認定試験をめぐって河合氏と大喧嘩した。怒ったユングに蹴飛ばされて2階から落ちたことがある。

(ユング研究所外部講師)
・レウ゛ィ・ストロース:社会人類学者
・ポール・ティリヒ:神学
・ハーバート・リード:イギリス美術史
・ポール・ラディン:人類学者で、河合氏は彼の言う、イニシエーション、トリック・スターの考え方に大変感激する。

(ユング研究所学生)
・李符永(イ・プヨン):韓国人てして最初のユング派分析家になる
・バサバダ:インド人。東洋人として初のユング派分析家となる。ちなみに河合氏は東洋人として2人目。
・樋口和彦:河合氏と同時期にユング研究所で学ぶ。

(その他)
・メダルト・ボス:ハイデッガー哲学に由来する「現存在分析」を主張。
・ルートウ゛ィッヒ・ビンスワンガー:上記の考えと名称を初めて持ち出し、「現象学的人間学」という言い方で提出。
・フィルツ:ビンスワンガーの病院で働いていたユング分析家。有能。
・三好郁男:河合氏に少し遅れて、メダルト・ボスの下で学んだ京大の精神科医。
・カール・ケレーニィ:ユングの友人。神話学者でマイヤーの友達。河合氏がユング派分析家の資格論文について相談する
・ロレンス・ヴァン・デル・ポスト:ユングの友人。マイヤーとも親しかった。日本で後に映画化された『戦場のメリークリスマス』の原作、"A Bar of shadow"の著者。河合氏が、日本文化の影についてマイヤーに話したとき勧められた。読んでいるとき、涙が出て仕方がなかったそうである。
・ロモーラ・ニジンスキー:ハンガリーの貴族で、ヨランド・ヤコービの友人。舞踊家ニジンスキーの奥さんで、河合氏が日本語教師を務める。
・ニジンスキー:舞踊家。後年、分裂病を発症。ビンスワンガーの病院に入院する。
・オイゲン・ブロイラー:ニジンスキーを初めに診察。チューリッヒ大学教授でユングと一緒に仕事をしたことがある。無名だった頃のフロイトを最初に擁護し、ユングを彼の元に送る。「精神分裂病」という名称を初めて提唱。
・コーラ:チューリッヒ大学の神学の教授。チューリッヒに「出会いの家」を作り、いろんな国の学生を泊まらせて勉強させていた。日本人や日本の宗教にも興味。同志社大学でもしばしば教える。
・内田伊佐夫:河合氏の留学の終わり頃、「出会いの家」で知り合う。スイス人の奥さんがいて、その人が河合氏の、『昔話と日本人の心』『明恵 夢を生きる』をドイツ語に訳す。『紫マンダラ』の訳にも取り組んでいる。
・ドラ・カルフ:箱庭療法の創始者。大金持ちの奥さんで、ユングと別荘が近かった。ユングに勧められてサイコセラピストになる。もとピアニスト志望で音楽家に知人が多い。鈴木大拙と親交あり。
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2008年08月18日

『あおぞら』

3年くらい前に出たノンフィクションで、内容は有名な携帯小説、『恋空』に似ている。

http://natsu.cc

執筆時の作者はまだ女子高生であり、文章表現は、探せば突っ込みどころ満載なほど拙いし、中学生時代に遡る作者の軽率な行動の数々に嫌悪感を感じる向きは相当あると思う。しかし、少なくとも自分と同じような過ちを犯す人が一人でも出ないように、もし誤って苦しんでいる人がいるなら、その苦しみを乗り越えられるようにという、彼女の祈りにも似た真心、真剣さが、真っ直ぐに伝わって来た。

これを読んだ後、パソコンに保存していたH動画を迷わず全部削除しましたよ。

昨晩のお祭りライブ+いつもの痛飲で、今朝は特にフラフラだったが、内容に引き込まれて一気に読んだ。

援助交際やレイプ被害といった性の暗闇部分にこれ以上ないほど傷付き(何度もストレスで吐いたりしてはる)、その一方で、その過去を共に乗り越えた、亡くなった彼氏との充実した時間を過ごした作者だからこそ、

「好きでない人とはセックスをするな」

と本気で言いはるように思う。また、愛する人との別れについてだが、人と人とが一体となり、その間にまるで血液のように心が通ってしまうからこそ、身近な人との別れには身を切り裂くような苦痛を感じ、深く傷付くこととなる。

しかし、深く傷付くからといって、心を通わせることを諦めるのだろうか?

・・諦める、が、ついこの間までの俺の答えであったが、昨日はめいいっぱい心を開き、声を出してみた。

今日の『あおぞら』が先に訪れたのか、昨日のイベントライブが先に来たのか、

「同時に来たのだ」と俺は解釈しております。
posted by よっしー at 20:15| Comment(5) | TrackBack(0) | お話・文学作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする